<天と大地に感謝する旅 屋久島 報告>
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岡田拓也さん
[天と大地に感謝する旅〜屋久島の感想]

出発の一週間前、岐阜の蛭ヶ野高原のログハウスでヴォイス・ヒーリングの渡邊満喜子さんにこう言われた。

 「屋久島に行ったら、雨に濡れてきなさい。肺が湿るほど深呼吸してきて下さい。屋久島ではね、雨に降られれば降られるほど、島に感謝されているのよ。そして、屋久島で歌ってきて下さいね。」

屋久島には行きたい、行かなければならないと以前から感じていた。何故だろう、でもいろいろな出来事や出会いが屋久島に繋がっていた。僕は母を6月に亡くした。癌だった。死の1〜2週間前、母を病院に見舞いに行った際に、病室に緑が全くないことに気がついた。直ぐにポトスの小鉢を買ってきて窓辺に飾った。開かずの窓。入院直後は、あの広尾の森の先に素敵なケーキ屋さんがあるから行ってらっしゃいとか、この窓から見る夜景が綺麗なのよと言っていた窓。しかし、一向に回復にむかわず、一日一日毎に悪化していく日々のなかで、母は挫折を繰り返し、いつの日か窓の外を見ることはなくなっていた。

死の2日前、母の手を握りしめ1時間話をした。母は人に迷惑をかけるのが嫌いだった。人に心配をかけるのが苦手だった。買い物は困っていないか、祖母は苦労していないか、犬の世話は大丈夫かと聞いてきた。僕は母を実家に連れて帰りたかった。静かな個室のベッドの上で、毎日変わらない天井を見つめ続ける母をこれ以上病院に縛り付けておくことが我慢できなかった。

 「絶対連れて帰るから。そうしたら少しは子供に迷惑をかけてくれ、少しは親孝行させてくれ。」

僕が最後に母に頼まれたこと、それは自動販売機で売っているミネラルイオン水のペットボトルを買ってきてくれということだった。たったそれだけだった。一口だけ飲んで「あぁおいしい」といったあの時の笑顔を僕は一生忘れない。僕は、母の子供として生まれて本当に幸せだった。また来るよと言って部屋を出た。それが最後だった。

その日の夜、オフィスTENが企画した「トークdeナイト」に参加した。田口ランディさんとアシリ・レラさんの語り合いだった。小柄なランディさんから発せられる元気なオーラのようなものに驚いた。そして存在感のあるレラさんのもの凄いパワーに圧倒された。

祈りとは何かを問い、母から娘に伝える文化とは何かを問い、平和とは何かを答え、アイヌの歴史の真実を答える。ランディさんは舞台の上で泣きっぱなしだった。僕も全ての言葉が心にずんっと響き、涙がボロボロと溢れて止まらなかった。

2日後、眠るように母は他界した。最後まで母らしく誰にも迷惑をかけなかった。告別式の最後で棺の中にいる母に「お母さん、本当にお疲れ様でした」と声をかけて手を合わせた瞬間に張り詰めていた感情が緩み、涙が止まらなくなった。そして母に「僕を生み、育ててくださって、ありがとうございました」という思いが満ちてきた。

母が生前趣味にしていたステンドグラスの材料や書籍を整理していると、映画「もののけ姫」のパンフレットを見つけた。持ち帰って食い入るように解説を読むと、そこには屋久島の白谷雲水峡のことが書いてあった。はっと気がついた。そういえば先日のトークdeナイトで配られたパンフレットの中に屋久島の企画があった。

緑、水、渡邊満喜子、田口ランディ、アシリ・レラ、オフィスTEN、もののけ姫、白谷雲水峡、母の死、祈り。全てが繋がった。自分の中でゴーサインが出た。僕はこの波に乗ることにした。翌日には夫婦2名分の予約を済ませていた。

出発当日。朝8時に羽田集合。多少ドタバタするも無事全員集合した。大阪、名古屋からのメンバーも併せて総勢31名。屋久島に着くと環境文化村センターに直行。屋久島の大自然に関する記録を詰め込んだ25分の映像を縦14m×横20mの大画面で観る。オフィスTENの天川彩さんが最初にここに来たいと言っていた理由を理解した。

夜は田代別館に宿泊。屋久島では国民宿舎の建て替えが問題になっており、屋久島旅館組合の反対行動の旗振り役となっているのがこの田代別館だった。第三セクター化してリゾートホテルを建設するというのが屋久町の方針らしい。それに対する反対意見の根拠やこれまでの経緯、事業計画の問題点などが当旅館のホームページに記載されていた。私は意見を固める前にまずはニュートラルでいることに決めた。賛成反対それぞれの立場がきっとある。その立場や人間関係を問題化してしまうのは間違いだし、感情的に互いを責めても頑なに拒否しあうだけだ。まずはこの目で直接見て、話を聞いて、肌で感じて、それらを自分なりに咀嚼してみようと思った。夕食の席で女将さんが「屋久島哀歌(エレジー)」を舞ってくれた。この歌は屋久島から戦争に出陣した恋人を想い歌ったものだった。心温まる旅館だった。

2日目。朝食後、天川さんが力説していたモッチョム岳の麓にあるパン屋「ペイタ」に立ち寄る。地元屋久島の黒砂糖を使ったパンで有名な店らしい。途中、バスの運転手が「あの建物が国民宿舎です。老朽化が進んでいるけど、取り壊す予算もなくて困っているという話です。」と説明してくれた。尾之間の海に突き出たロケーションは悪くない。それに国民宿舎を全て赤字垂れ流し施設と決めつけるのも問題だろう。しかし問題は屋久島に3セクのリゾートホテルが真に必要なのかどうか。公共の視点、宿泊施設利用者の視点、地元及び民間事業者の視点。3方向から判断しなければ簡単に結論は出せまい。良い弁護士は関係者双方を満足させる解決策を提案するものだと飛行機のなか本で読んだばかりだった。

バスを走らせ、大川の滝、千尋の滝を巡る。大川の滝下で水飛沫を身体一杯に浴びる。気持ちいい。漸く白谷雲水峡に到着。増水のため原生林の奥まで行けないかも知れない、と管理棟で言われるが、天川さんが「行けるところまで行きましょう」と声をかける。白たえの滝を横目で眺めながら弥生杉歩道を歩く。整備された歩道とはいえ、登りの段が続き、息があがってくる。しばらく歩くと弥生杉が目に飛び込んできた。胸高周囲8.1メートル、樹齢3000年の大樹。「こんにちは。」と挨拶して手で触る。何かを感じる。木の歴史だろうか、水の流れだろうか。歩道を再び歩き続け分岐点に着く。ここからは原生林歩道だ。大きめの岩を踏み台にして先に進むと直ぐに二代大杉に到着した。倒れた杉の株の上に巨木が聳えている。二代大杉の近くでお昼を食べる。天川さんお勧めのペイタのパンに舌鼓。

再び歩き出すと突然辺りを霧に囲まれた。何かの気配を感じる。苔の木々が美しい。なるべく多くの苔や木に触り、挨拶しながら更に先に進むと、三本足杉に辿り着いた。今日はこれより先には行けないらしい。みんなそれぞれのやり方でこの杉と会話をしている。根の付近の水を飲む人、記念写真を撮る人、幹に手を当てる人、木に語りかける人、木に額をつける人。僕は石の上に立ち、杉に向かって小声でハミングしながら歌った。そして思いっきり深呼吸する。水、空気、緑が気持ちいい。デジカメで三本足杉の写真を撮ろうとしたが、何故かシャッターがおりない。心の中で杉に「撮らせてください」と祈ると、不思議とシャッターがおりる。その写真には不思議な光の玉が無数に映っていた。もののけ姫に出てきた「木霊(こだま)」だろうか?

ここで折り返し、バスで永田に向かう。宿泊先の送陽邸は素晴らしかった。耳を澄ませば、聞こえてくるのは波の音と虫の声だけ。見上げれば満天の星空。特別のもてなしがある訳では決してない。だけどそれが何よりも快適だった。

3日目は自由行動。縄文杉に会いに行くために4時起きのグループもあれば、リバーカヤックを楽しむグループ、西部林道をウォーキングするグループと様々だった。僕達夫婦はこのいなか浜で何もせずに1日過ごそうと決めていた。宿の主人の話を聞きながらお昼を食べた。ご主人はこんな話をしてくれた。

 「屋久島の魅力は、決して飽きないことだ。私は1日中、このいなか浜の海を眺めていても全然飽きない。私はこの場所が大好きだ。」

 「島にはリゾートホテルなんて必要ない。いわさきホテルという大きなリゾートホテルがあるが、そこでは鹿児島から牛肉を取り寄せて仏蘭西料理を食べさせている。観光客はリゾートホテルに泊まるために屋久島に来たのだろうか?それなら他に幾らだってある。」

 「ここに泊まる客に特別なことをしている訳じゃない。ただ一つ気をつかっているのは、常に清潔にしていること。あとはありのままを提供している。夕飯に出したゴマ鯖の刺身も、朝食に出した飛び魚も、この屋久島で普通にとれるものだよ。」僕にはこれで充分だった。国民宿舎問題に対する僕なりの回答が出来つつあった。

その日の夜はオフィスTENが粋な計らいをしてくれた。たまたま秋分の日の今日が僕たちの結婚記念日だった。ケーキを用意してくれて、ツアー客全員で祝ってくれた。縄文杉まで10時間かけて往復して疲れ切っている人もいたのに、みんなで祝福してくれた。隣の妻は胸を詰まらせ声が震えていた。僕も全く同じ気持ちだった。

その日の夜、ふと宿にあった生命の島という本を手に取ると、「光あふれ 歌声ひびけ」というタイトルの記事が目に飛び込んできた。松本淳子さんという方の書かれた記事だった。そこには、「われら生まれて故郷を愛す」「この山 この谷 この川 この水 この杉 この園 この村 この家 この父母 師の君 この友 母校 この空 この路 この静寂の山 このトロ このとび こののこ このなた この岩 この滝」と繰り返し自然を謳歌する小杉谷小・中学校の校歌のこと、小杉谷で歌い「何かが喜んで、遊ぼうと誘います」と語るヴォイス・ヒーリングの渡邊満喜子さんのこと、アイヌが鎮魂の儀式で使うイナウを渡すアシリ・レラさんのこと、人と人を繋げるオフィスTENの天川さんのこと、縄文杉に会いに行ったグループが話題にしていた山の神様のこと、そして「ごめんね、今まで放っておいて」という感情が沸き上がり「ここまでさせてくださって、ありがとうございました」と言って号泣された松本淳子さんのことが書かれてあった。やはり全てが繋がっていた。僕は屋久島にこのタイミングで来るように誘われていて、僕のアンテナはしっかりと動いていた。

4日目、最終日。バスで屋久杉ランドまで出向いた。前日、縄文杉を見れなかった人のために天川さんが気を利かせてくれた。今回の旅はこんな柔軟な配慮が数多くあり、それがとても自然で嬉しかった。目当ての「紀元杉」に辿り着く。圧倒的な存在感。だけどこの杉はまだまだ若々しく、生命力が漲っている。胸を木に当てて「歌わして下さい」とつぶやき、僕は木の波動を感じて歌った。低く太い声が響いた。出し切って歌い終わった瞬間に、優しい感覚が胸に入ってきた。誰かに「ありがとう」と言われた気がした。

最後のイベント。益救神社参拝。1000年以上の歴史をもつ日本最南端の式内社。祭神は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト[山幸彦])という「山の神」。旅の無事を感謝して全行程が終了した。

港に向かうバスの中で、皆がそれぞれの感想を語り合った。そこで天川さんからここには書けない素敵なプレゼントを貰った。僕はまた来年もこの旅行に参加することを即決した。

天川 彩 様
  
あなたの頑張りがなかったら
あなたの笑顔がなかったら
きっとありきたりの屋久島旅行になっていたでしょう

人と人を繋ぎ
全てをプロデユースするあなたの姿
ぼくは決して忘れません

きっと口に出来ない苦労が裏であったことでしょう
きっと頭にカッときたことが沢山あったでしょう

この3泊4日間、本当にご苦労様でした
とってもとっても感謝しています

いつまでもお元気で
ほんとうにありがとうございました

2001.9.26
岡田 拓也
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