■「お釈迦様に逢いたくて」 5』
「平城京フォーラムin東京」の会場は、二千人の人で埋め尽くされ、
熱気が立ち込めていた。
なぜ、こんなに多くの人々が、平城京に興味があるのだろうか…と思い
ながら、パネルディスカッションに耳を傾けてみた。
テーマは「日本人の心と奈良」。薬師寺の安田映胤管長様もパネラーの
お一人として登場されている。奈良から始まった日本の歴史文化や、ゆ
るやかな大和時間の流れ、そして渡来の文化と日本古来の文化が融合し
た国際都市、平城京。今まで歴史の教科書でしか触れていなかったもの
が、急速に心の中で形作られていくような思いがした。
パネルディスカッションの後、南都声明公演、薬師寺花会式というお坊
様たちによる声明が行われた。
花会式(はなえしき)というのは別名、修二会(しゅにえ)とも呼ばれ
ている。修二会とは、奈良の大寺が、国家繁栄や五穀豊穣そして万民の
豊楽などを祈る為に行う春の行事のことで、東大寺のお水取りなども修
二会だ。
薬師寺修二会は、奈良時代から続いているという。平安時代、堀河天皇
の皇后が病に臥していた折、天皇が病気平癒を薬師如来に祈られ回復し
たお礼にと、その翌年に十種の造花をご本尊に供えられたところから薬
師寺では修二会が「花会式」と呼ばれるようになったそうだ。
710年、平城京に首都が移され、奈良時代の幕開けとなってから、もうじ
き1300年。かつての都にも、きっと変わることなく鳴り響いていたであ
ろう、美しくそしてダイナミックなお坊様たちの声明。
いろいろな時代を超えながらも、祈りの世界は絶えることなく、受け継
がれてきた。壇上中央に飾られた、薬師如来像の大きな写真が、静かに
流れゆく「時」を見つめているように感じた。
それから3日後、いよいよインド出発の日を迎えた。
母と二人で旅に出るのは、これで2度目。一度目はアリゾナの先住民族の
村へ。そして今回はインド仏跡巡礼だ。
かつて母はとても保守的だった。私が、様々な経緯から今のような思い
で動き始めた時、全く聞く耳を持とうとはしなかった。そればかりか、
「おかしくなったのではないか」とか「妙な宗教に入ってしまったのでは
ないか」としばらく批難していた。現代社会の中での固定概念を外して、
ニュートラルに、物事の真意や本質を考えていく、という行為が多分理解
し難かったのだろう。
しかし、そんな母も恐るおそるだったが、少しずつ変わってきた。今では
私の良き理解者、応援者となってくれている。
「本当に何も知らないし、お釈迦様も般若心経も薬師寺も何にもわからな
いけれど、それでも大丈夫よね?」と母が空港で念を押して聞いてきた。
「大丈夫。私もわからないけれど…何も知らなくて行ってもいいんだよ。
こうして行けるってことは、ご縁があるってことだと思うよ」と答えると
母は安心した顔になり集合場所まで向っていった。
飛行機の移動時間はあっという間だった。
着陸1時間ほど前だっただろうか。飛行機最後部の窓をのぞくと、はるか
下に美しく連なる山並みが見えた。
それが天山山脈なのか、ヒマラヤ山脈なのかはわからない。
しかし、玄奘三蔵はこんな山々を越え天竺を目指したのかと思うと、飛
行機で一気に向っていることが、なんとなく申し訳なく思えた。
つづく…