「お釈迦様に逢いたくて」 4』


数日後、説明会の案内が届いた。場所は、薬師寺東京別院。

どうやら、インド巡礼の旅は、お坊さんたちばかりではなく、薬師寺と
何らかのご縁のある方々も集っての旅のようだった。

説明会当日の朝、出掛けに急用が入り少し出遅れた。
急いで五反田の坂を上って行ったが、十五分の遅刻だ。バツが悪かった
のだが、パンフレットが入った茶封筒を受け取り、案内された席に着く。
幸いにして、まだ説明会は始まっていなかった。

席について、案内された机の上にもう一部同じパンフレット入りの封筒
があることに気付いた。

説明会が終わり、インド人の旅行ガイド会社のジャイさんに「先ほど頂
いたパンフレットですが、机の上にも一部置いてあったのでお返ししま
す」と手渡し、帰るつもりだった。
ところが「きっと、あなたは誰かを連れて来る為に二部あなたのもとに
あったのでしょう」と受け取ってくれない。
「誰か思い浮かんでいる人いませんか?まだ今週いっぱいなら受付伸ば
せますよ」と更に続けていう。
私は思わず「母を誘ってみましょうか…」と答えていた。

実は説明会の最中で遺跡の話になった時、ふと母と数年前に二人で行っ
たアリゾナのペトログラフ(岩絵)を訪ねる旅のことを思い出していた
のだ。

「え?お母さん?それはいいですね!きっとお母さん一緒にこの旅に来
ますよ」
何を根拠にかはわからないが、ジャイさんは、そう言い切った。

その日の午後、母に連絡を入れてみる。

「突然だけど、来月一緒にインドに行かない?薬師寺の管長様が中心と
なって、お釈迦様の足跡を訪ねる旅に行くんだけど…」
「行かな〜い。お金ないもん」
「そうだよね。突然すぎるしね」
「そうだよ」
「だよね…」

ところが、数時間後「やっぱりパンフレットだけでも送ってくれない?
」と電話がかかってきた。どうやら兄のお嫁さんである義姉が「折角、
そんな旅に誘ってもらったんなら、多少の無理をしてでも行ってきた方
がいいよ」と後押しをしてくれたらしい。

実は、1週間前のこと。兄が物理学会の関係で東京にやって来た時、義
姉も一緒にやって来て我が家に泊まった。昼間、義姉と二人で上野の国
立博物館に行った時、一階に展示されていた仏像を見ていたら、姉は何
か特別な感覚になったと話してくれたのだが…そのことも関係している
のだろうか。

とにかく、取り急ぎ母のもとに資料を送り、受け取った母は、すぐに申
し込みの手続きを取った。


その年の大晦日、23時45分。
NHK紅白歌合戦が終わった直後の放送番組「ゆく年くる年」トップシ
ーンは奈良の薬師寺からだった。

私は、なぜか不思議な気持ちになり、この番組を正座して見ていた。


年が明けて、正月の2日。
我が家では、家族揃って書初めとして般若心経の写経をすることにした。
奈良の薬師寺に参拝した折、購入していた般若心経のお写経だ。

薬師寺は、天武天皇(680年)の皇后病気平癒の為に建てられた祈りのお
堂だ。当初は、飛鳥の地に建立されたそうだが、後に平城京(710年)遷
都により現在の地に移築されたという。しかし天禄4年(973年)及び享
禄(1528年)の火災により東塔(国宝)以外の伽藍は消失してしまった。

400年以上、ほとんどの伽藍が無かった薬師寺を、どうにかして復興させ
ようと立ち上がったのが、前々管長である高田好胤師だった。国や企業
からの献金は一切受けず、一人一人の祈りのこもった写経を納経しても
らうことによって伽藍を復興をさせようと動き始めたのだ。当初、テレ
ビや雑誌で呼びかけたりしたことで、タレント坊主と呼ばれたり、お経
を売るという行為そのものを、非難されたこともあったという。しかし、
徹底した信念のもと写経の勧進をした結果、1976年に金堂が再建された
のをはじめ、西塔、中門、回廊、大講堂などが、民衆の写経によって次
々と再建されたのだ。

奈良でそんなお話を伺い、私は感動した。
そして家族で1枚を写経しても良いということだったので、お正月、私
は家族で一枚の写経をすることにした。般若心経を書きながら、身も心
も清まり、また薬師寺の伽藍の復興を少しお手伝いできるのなら、この
上なく幸せなことだと思った。

子どもや夫にとって、生まれて初めての写経。しかも、般若心経を一行
一行家族が順番に書くという、変形写経ではあったが、家族が一枚のお
経を書き上げるのも、なかなかいいものだったようで、正月早々いい時
間を過ごせた。


インド出発の3日前、私は日比谷公会堂で催された平城遷都1300年記念事
業「平城京フォーラムin東京」の会場にいた。
                         
                        つづく…



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