「お釈迦様に逢いたくて」 3』


奈良から戻った翌日、仕事をしていても落ち着かなかった。
前日のことが頭から離れない。
買ってきた「薬師寺」という本を読んでみようと思ったら…なんと肝心
の本が、袋の中に入っていない。
どうやら、忘れてきてしまったようだった。

読めないとなると、更に薬師寺のことが気になり、前日、教えていただ
いていた五反田の薬師寺・東京別院へ行ってみることにした。
全てのいきさつを知っている、スタッフのキョウちゃんも一緒だ。

銀行脇の細く急な坂道を登り、閑静な住宅街を通り抜けると、日本家屋
のひっそりとした佇まいがあった。
別院もお寺の建物だと思い込んでいたので、うっかり通り過ぎるところ
だったが、「薬師寺東京別院」と入り口に木札がかかっている。
そこは、御家流香道を極めた故山本霞月氏の旧宅。

ドキドキしながら靴を脱いで下駄箱に入れると、高田好胤師の銅像が、
にっこりこちらを微笑んで迎えてくださるように見えた。

階段を上り、寺務所へ行くと職員の方が「どうぞ、ようこそお参りにい
らっしゃいました」と言ってくださり、奥の部屋へ案内してくださった。
中に入ると、和袈裟をさげた方々が静かにお写経をしていらっしゃる。

私とキョウちゃんは邪魔にならないよう、おずおずと前に進み中央にご
鎮座されている、本尊薬師如来様に手を合わせた。

お参りを終えて寺務所の前の空間に出ると、「お茶が入っております」
と先ほどの男性が、お抹茶とお菓子をご用意してくださっていた。
なんとも、気恥ずかしいような思いで一服いただいた後、沈黙が流れた
ので、私は声をかけた。

「実は昨日、奈良の薬師寺さんに行って来たばかりなんです。こちらの
ことは、昨日初めて知ったばかりなんですけれど、気になってお参りに
きました。それで、どうやら昨日、奈良のお寺に、本を忘れてきたみた
いなんです。800円支払ったのですが、どうやら忘れてきたらしく…」

どのように挨拶していいかわからなかったので、一気に喋ってしまった
がちょっと失敗したと思った。何も私は本のことを言いに来た訳ではな
い。しかし、時は既に遅かった。

「どんな状況で、どんな袋に入っていましたか?」
「何処の場所で、お忘れになったか、覚えていらっしゃいますか?」
「奈良へ問い合わせをしてみましょう」
と奥に行くと、早速奈良に電話をかけているようだった。
結局、昨日のお坊様は不在のようで、忘れ物の本が無いか後で聞いても
らいましょう、ということになった。

なんとも、格好の悪いことになった。

「あの〜。薬師寺の管主様たちが、今度インドへ行かれるのですよね。
昨日、そのお坊様に私も一緒にいかがですかと誘われたのですが…」と
空気を変えるために、全く別の話題を言てっみた。
すると、早速奥からパンフレットを取り出してくれた。
パンフレットがある旅だとは想像していなかったので少し驚いたが、そ
の用紙の裏をよく見ると、締め切りが11月30日となっている。
その日は、11月28日。

奈良でお会いしたお坊様は、いろいろな資料と共にこの旅のお知らせも
送ってくださると言ってくださっていたが、締め切りまで後2日しかない。


丁寧にお礼を言い、高田好胤師の銅像に再び手を合わせて外に出た。

「キョウちゃん、私1月にインドへ行くよ!!」
「あやさん、よかったですね。本当に」
事務所にずっと「BUDDHA」という本が置いてあることを知ってい
るキョウちゃんは、心の底から今回の経緯を祝福してくれているようだ
った。

私は、事務所へ戻り穴が空くほど、そのパンフレットを見ていた。

夜、迎えに来てくれた夫と共に、家まで歩きながらこの話しをした。
いつもなら「良かったね。行っておいでよ!」と何処へ行くのもほとん
ど賛成してくれる夫が、いつになく変な顔をしている。

「え〜?行ったらダメなの?」
「いや、そういうわけじゃないけれど…いつ行くって言っていたっけ?」
「1月17日出発で、1月の末に戻るの」
「ねぇ、その間に大事なことあるの忘れていない?」
「大事なこと??」
「子ども達の受験だよ」
「あ…!!」

私は、自分のことで頭が一杯になっていて、コロッと子ども達の受験の
ことが頭から離れていた。
1月21日・22日は長女のセンター試験で、1月23日は息子の私立高校併願
推薦試験だった。

「やっぱり、こんな時期に行くのはまずいかなぁ…」
「いや、まずいっていうより、子ども達にとって運命の大事な日でしょ


夫の言う通りだった。

夫とは、東京に私が出てきた後に知り合い、2003年に再婚。
彼は私の夫になった時、同時に思春期の子ども達三人の父親にもなった。
再婚当初は、互いにギクシャクしていたが、今ではすっかり子ども達も
彼を頼っている。夫は科学者なので、もっぱら左脳担当。子ども達の受
験勉強も一手に引き受けてくれていたので、受験のことに関しては私よ
り遥かに詳しかった。

私は、自分のアホさ加減とインド行きが遠のいたことで、すっかり元気
をなくしてしまった。

家の手前で、夫が言った。
「インドへ行けるのは、決して当たり前じゃないんだよ。家族が大事な
時期に行くんだから、そのこともしっかり心して行きなさい。子ども達
のことは俺に全て任せて、安心して行ってきなさい。ただ、二人には、
受験という大事な日に留守にしてごめんなさい、と伝えておきなさい」

そう言うと、夫は先に玄関の中に入って行った。

本当にありがたかった。
そして、こんな夫と結婚して本当に良かったとしみじみ思った。


                   つづく…


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