「お釈迦様に逢いたくて」 12』


お釈迦様は、悟りを開くために様々な厳しい苦行を続けていた。しかし
苦しいだけの行を続けていても、健康を害するだけで、本当の悟りに辿
り着くことも、エネルギッシュに説法を説くこともできない。そう思っ
たお釈迦様は、苦行の場を離れた。しかし、ほとんど何も食べずの修行
で、骨と皮だけのような状態になり、ある村で倒れてしまった。
そこの村に、スジャータという娘がいた。
スジャータは、倒れているお釈迦様に乳粥を施し、お釈迦様の元気を回
復させた、という話から、その村はスジャータ村と呼ばれるようになっ
たという。

スジャータ村に着いてバスを降りた時、また私の左肩を叩いたのは、ブ
ッダガヤで出会った青年、アソサンだった。
「僕はこの村の生まれです。だから、アヤサンには僕がここの案内をし
ますよ。通常、皆が見るところは、記念の像が置いてあるだけなんです。
お釈迦様がスジャータから施しを受けた場所は、ちょっと違う場所なん
ですよ」と言う。
私は一瞬迷ったが、母を誘って、一行の流れから少し離れてアソサンの
説明を聞くことにした。

アソサンは、私と母とを小高い丘の上に連れて行くと、遠くの山を指差
した。
「お釈迦様は、あの山の上で六年間苦行を続けていました。そのあと、
この村でスジャータが乳粥を食べさせたといわれていますが、実は、す
ぐに乳粥を食べさせたのではありません。ちょっとこっちに来てくださ
い」と更に丘の横に引っ張った。
「あのあたりで、スジャータは衰弱しているお釈迦様を見つけて、まず
バターを唇に塗ってなめさせました。最初の7日間はバターだけです。
8日目にやっと、固形物である乳粥を食べさせたのです」という。
私は、その話が妙に腑に落ちた。

しばらくすると、丘の上にスジャータ村の学校の先生や子ども達がやっ
て来たので、アソサンは彼らを紹介してくれた。
ブッダガヤよりも、更にその村は貧しい暮らしをしているようだったが、
子ども達の目はイキイキとしていた。
丘から降りるとき、一人の男の子が母にさっと手を差し伸べて、母を支
えるようにしながらゆっくり坂道を降りてきてくれた。
インドの子どもたちの心の豊かさを垣間見たような気がした。

その日の夕方、再びブッダガヤの大塔と菩提樹にお参りに行くことにな
った。
私は前夜購入した星月菩提樹の数珠を3本手巻いて向った。
一本は私自身に購入したもの。一本は夫の為に購入したもの。そしても
う一本は、スタッフのキョウちゃんの為に購入したもの。
この日の大塔付近は、ダライ・ラマ法王がもうすぐやって来るというこ
とで、前日よりチベット僧が一段と増えて大混雑していた。エンジ色の
法衣に身を包んだラマ僧たちに混じり、一歩一歩大塔の中に進んでいく。
長時間かかって金色のお釈迦様の像の前まで来た時、私は3本の数珠を
あてながら静かに祈った。

塔から出ていた時だった。またしても、私は左肩を叩かれた。やはりア
ソサンだった。
私はアソサンのお店で、記念になるものを何か必ず買おうと思っていた
ので、他の露店等で大量に売られていた「菩提樹の葉っぱ」を売っても
らえないか聞いた。
アソサンは困った顔をしながら言った。
「ほとんど売られているものは、本物の菩提樹の葉っぱではなくて、同
じ種類の木の葉っぱを拾って売っているものだから、ワタシのところで
は扱っていません」。
そして、アソサンは「せっかく、ここにお参りに来たのだから、買い物
のことより地元の仏教徒がお参りする方法を教えてあげますよ。どうぞ
してみてください」と続けた。
私はアソサンに教えられた通り、念仏を唱え数珠をまわしながら時計回
りに大塔の周囲を三周した。

三周し終えた時、またしてもアソサンが現れ、私に手を出すようにいう。
そして、そっと私の掌に小さな葉っぱ三枚と赤い実を乗せてくれた。
驚いていると「これが、本物の菩提樹の葉っぱです。これはお金にかえ
るものではありませんから、あなたにあげます」というのだ。
私は、感激のあまり声も出なかった。
アソサンは、もしかすると「人」ではないのではないか…と薄々思って
いたが、更にその思いが強まった。

アソサンは「今回、無理して何も買わなくていいから、またブッダガヤ
に来てください」と言ってくれた。しかし私自身がどうしても、ブッダ
ガヤでの思い出の品が欲しくなってきた。
そこで、私は子ども達3人用の数珠と、自分用にアソサンが選んでくれ
た布バッグを購入した。
そして、急に私以外にもお釈迦様にご縁を感じている人がいたら…と、
ふと思い同様の布バックを数点購入した。


その日の夜、私はブッダガヤで過ごした時間が濃すぎて、なかなか寝付
くことができなかった
                        つづく…


戻る←                 →次へ