■「お釈迦様に逢いたくて」 10』
ブッダム・サラナム・ガッチャーミ
ダンマム・サラナム・ガッチャーミ
サンガム・サラナム・ガッチャーミ
これは、私が乗ったバスで、インド人ガイドのパタックさんが毎朝、朝
一番に大きな声で唱え、私たちも続いて三回唱えていた言葉だ。
意味は、
私は仏陀に帰依します。
私は真理に帰依します。
私は聖者の団体(僧侶)に帰依します。
というものらしい。
私自身は仏陀にも聖者の団体にも、深くは帰依していない。何故なら、
熱心な仏教徒であるとは言えない上に、仏教だけが唯一無二の宗教であ
るとも思えないからだ。私の実家は曹洞宗で、夫の実家は浄土宗。お寺
に行き手を合わせることも、念仏を唱えることもある。だが、私の場合
は、神仏習合の方がしっくりする。
しかし「真理」というものについては、帰依していると言い切れる。お
釈迦様が説いた、宇宙の真理ともいうべき無駄のない法則。そこには、
何一つも矛盾点や疑問点を感じない。
そんな偉大なる聖人の足跡を訪ねることができた幸せは、言葉では言い
尽くせない感動がある。
だからだろうか。パタックさんに続いて、毎朝大きな声でその言葉を唱
える言葉に違和感もなく後を続けられたのかもしれない。毎朝大きな声
で唱和すると、目はスッキリと覚め、心の中も洗い流されたような爽や
かさだった。
バスでの長距離移動の途中、インドの片田舎の路地で時折、休憩しなが
ら飲んだ、露天喫茶のようなチャイ屋でのチャイの味も忘れられない。
積み上げた煉瓦の中でコークスを焚き、その上に大きな鍋を載せて、茶
葉とミルクと砂糖、そして生姜や数種類のスパイスを沸かす。それを素
焼きの小さな陶器に入れて出してくれるのだ。お代わりは自由で。
アツアツの甘くスパイシーなチャイの味は、どんな高級ホテルで飲んだ
ミルクティよりも美味しく、体に染み入るようだった。
クシナガラを発った翌々日。
玄奘三蔵が憧れ続けようやく辿り着いた旅の目的地、ナーランダに行っ
た。
『ナーランダ大学』。今はもう跡地として、かつての名残として建物の
一部が遺跡として残っているだけだが、玄奘三蔵はその地で五年ほど仏
教を学び、経典を書き写したのだ。
このナーランダという場所は、かつて地元の五百人ほどの商人たちが共
同でお釈迦様に寄贈し精舎も建てられた場で、説法をされたこともある
という。
お釈迦様が亡くなって、数百年の年月が流れた紀元前後より、この地は
仏教学研究の中心の場となったらしい。
五世紀には、当時の王が巨大な伽藍を建立し、ナーランダ大学の伽藍が
完成した。
玄奘三蔵が、ナーランダ大学で学ぶことになった経緯は不思議な話なの
で紹介しよう。
玄奘三蔵が仏教を学びに行ったナーランダ大学には、当時、百六歳を迎
えていた正法蔵(戒賢論師)という、偉いお坊さんがいた。
玄奘に「何処の国より来たのか」と問う正法蔵に「チーナの国から師の
もとで学びたく念願してやって来ました」た返答すると、正法蔵は突如
涙を流したという。
実は三年ほど前、リューマチの痛みに耐えかねた正法蔵が、断食による
自殺を願っていたある時、夢見枕に三人の天人が現れたそうだ。一人は
黄金色、一人は瑠璃色、一人は銀色。その三人の天人は正法蔵に近づき、
「苦痛から逃れようと自殺をしても、苦しみからは永遠に続き逃れられ
ない。正しい法を知らない人々に、広く広めたならば救われるだろう。
チーナの国の一人の僧が、あなたから学びたいと向っている。その者が
到着した時には、しっかりと教え導きなさい」と言ったそうだ。そして
金色の人は、瑠璃色の人を指差し、このお方は『観自在菩薩』であると
いい、銀色の人を指して、『弥勒菩薩』であるといい、最後に金色の天
人は私は『文殊菩薩』であると伝えたそうである。
ちょうど、玄奘が文殊菩薩に導かれ、天竺までの旅に出たのが三年前。
互いに、実話のような正夢により結び付けられた師匠と弟子。それから
五年の歳月をかけて、師匠は弟子に仏教の経典を伝授したそうだ。
当時、ナーランダ大学で学ぶ僧侶の数はおよそ一万人。玄奘の待遇は、
異例中の異例だったことは間違いないだろう。
そんな、逸話があるナーランダ大学の大伽藍の前に立った時、いにしえ
の時を超えて、当時の風景が見えるようだった。
私は遺跡の横に立つ、マメ科の樹木の忘れ形見のような、木の下に落ち
ていた豆サヤのかけらを、持ち上げてみた。なんとなく、その木は世代
交代しながらも、かつての仏教大学の姿を目に焼き付けているような気
がしたからだ。
もしかすると、ナーランダ大学で学んでいた玄奘三蔵の姿も、この植物
の祖先は見ていたのかもしれないと思うと、急にその豆サヤに親近感が
湧いてきた。私は、何の変哲もない豆サヤの干からびたカケラを、そっ
と鞄の中に入れて宝物にすることにした。
つづく…