『雨弓のとき』 (21) 天川 彩
「祥子。どうしちゃったの?まるで大人みたい。お母さん払うわよ」
祥子がレジの前に出した伝表を、母の敏子は慌てて持ち上げて、鞄から
財布を取り出した。
「いいって。別にこのぐらい」
「何言ってるのよ。まだあなたは学生で社会人じゃなんだから、そんな
大人びたことしなくていいのよ。ちゃんとまともに稼げるようになって
からにしなさい。そんな格好つけるのは」
「…」
祥子は、自分が出していた財布を、ポシェットの中に押し込め、喉元ま
で出かけていた言葉をぐっと飲み込んだ。正月早々、外の喫茶店のレジ
で口論などはしたくなかった。
本当は生まれて初めて、親におごってみたかった。良一と「正月は互い
に親孝行しようよ」という約束のことも、頭の隅にあったのだが、祥子
にしてみると、ほんの少し大人の仲間入りのようなことがしてみたかっ
ただけなのだ。
店の外に出ると、祥子は無言のまま早足で駅の方へ歩き出した。
敏子は、小走りになりながら祥子の後ろをついて行った。
「ちょっと、祥子。何怒ってるのよ」
「別に…」
「あー、祥子の『別に』が出た。やっぱり、怒っているんじゃない。何
?お父さんのこと、そんなに嫌なの?」
祥子は敏子の声が聞えないふりをして、更に足早に歩いた。
「そうか…。お父さんの病気のこと、言わなきゃよかったわね」
「違う!」
祥子は急に立ち止まり、大きな声を出した。そして敏子の顔を真っ直ぐ
見て続けた。
「お母さんのデリカシーの無さが嫌なの。昔から大嫌いなの」
「え?デリカシー?」
「もういいよ。大晦日から元旦にかけて、一緒に過ごしたんだから、私、
自分の家に帰っていいでしょ。越谷には私戻らないから、悪いけど一人
で帰って」
「…」
初詣帰りらしきカップルが、祥子と敏子の姿を横目でチラッと見て、通
り過ぎていった。祥子はバツが悪くなり、急に他人のフリをして歩き出
した。しばらく歩いた所で敏子の方を振り向くと、敏子は先ほどの場で
うつむきながら小さな肩を震わせていた。祥子は、瞬間的にマズイと思
い、道を引き返した。
「ごめん…なさい」
「…」
「つい」
「あのさ、デリカシーないんだよね。お母さん」
「だから、ごめんって言っているじゃない」
「お母さん、なんで祥子が怒っているのか、まだよくわからないの」
「あ、いや…そうか。ね、もういいじゃない」
「お母さん、デリカシーないから、教えて」
「いやだ、お母さん。ほんとごめんね。傷つけちゃったよね」
「そんなことじゃなくって、何で祥子を怒らせた?」
「あ…。いや、ほらさっき、レジのところで私がお金払おうとした時に
さ」
「まだ社会人じゃないんだからってこと?」
「なんていうのかなぁ。お茶代ぐらい、まともに稼げるようになってか
らって注意されるような、そんな金額じゃないじゃない。初めて親にお
茶ぐらい、おごってみようと思ったのにさ…なんか、もの凄くガッカリ
っていうか…」
「そうか。それはお母さんが悪かったよね。祥子の優しい気持ちを踏み
にじるようなこと自分じゃ気がつかないけれど、言っているんだよね」
「私もそうだから。いや…私なんか、お母さんが傷つくってわかってな
がら、わざと言っていたかもしれないし。…ごめんなさい。そうだ。お
母さん、今日私の部屋に泊まらない?」
「え〜?祥子の部屋に?」
「だって、ここから直ぐだし」
「そうよね。根津だもんね」
「そうしようよ。お母さん我が家に泊まったことないし。お布団一つし
かないけれど、くっついて寝たらいいよね?」
「祥子がいいんなら、勿論お母さんはいいけれど」
「それじゃ、決まり。私、夕飯作るから」
「あら…家のお節持って来たらよかったわね」
「また明日戻って食べようよ」
「祥子、また越谷に明日戻って来てくれるの?」
「三が日は一緒に過ごすって、決めていたんだ」
「そうなんだ」
「私、お料理作るからさ、お母さん材料だけ買ってくれる?」
「あれ?さっきはおごれなかったって怒っていたんじゃないの?夕飯は
おごってくれないの?」
「飛び切り美味しいの作ってあげるから。でも夕食の材料代は甘えちゃ
いたいな、なんて。ダメ?実はお財布に今、三千円しか入ってないの。
お茶ならおごれたんだけど、夕食の材料代払ったら、結構キツイんだ」
「そうか。お年玉まだあげてないものね」
「いや、お年玉はいいよ。私、もう成人だし」
「でもまだ学生じゃない」
「だけど、大人の年齢だからさ、それはいいよ」
「ほんと、祥子ちょっと離れている間に、なんだか急に大人になったの
ね」
祥子は、良一と過ごした年末の時間を、急に思い出してほんのり顔が赤
くなった。
つづく…