『雨弓のとき』 (20) 天川 彩
祥子は混乱していた。
父親という存在すら、自分の記憶の中からほとんど消えていた。なのに
突然、末期癌で入院していると知らされても、その事実をどのように飲
み込んでいいのかわからなかった。また母も自分も長年苦められた父の
浮気。その結末であったはずの父の再婚生活も、既に解消されていたこ
とも初めて知った。それにしても、なぜ母がそれを知っていたのか。
いつ、どのように連絡を取り合っていたのだろう。父をあれほど憎んで
いたはずの母だったのに…。
祥子は、無意識のうちに、飲み干し空になったカップの中にスプーンを
突っ込むと、グルグル音を立てて掻き回していた。
「ちょっと祥子、やめなさい。ちょっと…。ねぇ、祥子ったら」
何度目かの母、敏子の静止の声で、祥子はやっと我に返った。
「あ、そうか…」
祥子は、慌ててスプーンをソーサーの上に置き、力なくその手を膝の上
に落とし、視線もその手に向かっていた。
「ごめんね。お父さんが癌だってこと、祥子にもショックよね」
祥子は無言で頭を大きく振った。
「え?ショックじゃないの?」
「わかんない」
「わかんない、か。でも、そりゃそうかもしれないわね」
祥子は、急に顔を上げると、祥子の目を見て言った。
「お母さん、これからどうするの?」
「え?これからって?」
「だから、お父さんの面倒見るの?」
「面倒って、看病ってこと?」
「よくわかんないけれど…全部」
「さぁ…。どうなんだろう。お母さんね、自分でもよくわかんないの」
お父さんのことどうしたらいいかが」
「どうしてよ。とっくに離婚したんだから他人じゃない」
「まぁ、確かに勿論、他人なんだけど。でもね、結局はお母さんのとこ
ろに連絡してきたでしょ…」
「お母さん、絶対に騙されちゃダメだからね。いつもそうやってお母さ
んは信じては裏切られてきたんでしょ」
「でも…。病人だし」
「それにしても、お父さんと再婚した浮気女、やっぱり最低だよね。お
父さんが病人になったら、さっさと離婚するだから」
「さぁ、詳しい事情はわからないけれど…でも、お父さんの話だと、ど
うやら離婚した後、病気になったみたいだけど」
「でもさ、その女の人や、子どもはお見舞いに来ないの?どうなってい
るのかな?そのあたりは」
「お母さん、そこまで知らないわよ」
「そうか…。だよね、ごめん」
敏子の語気がやや上がっていることを祥子は察知して、直ぐに謝った。
そして、喫茶店の入り口を見ると、席待ちの人が並んで待っている姿が、
目に入った。考えてみるとそれは当然だった、元旦の寒い日、初詣客が
立ち寄れる喫茶店は限られている。誰しも同じ事を考えるのだ。入店し
た時は、たまたま席が空いていた。
今はカップすら既にさげられている祥子たちのテーブルには、席待ちの
人々の痛い視線が突き刺さるように向けられていた。
「ねぇ、お母さんこのお店出ようよ」
祥子はそういうと、さり気なく伝票を持って立ち上がった。
つづく…