「天の河に橋かけて」(6)

■[心の叫び]

1999年8月。
音楽家、岡野弘幹さんの呼び掛けで「虹の祭り 地球にごめんな祭」が奈良の春日公園をメイン会場にして行われた。

私は、岡野さんのサポート役として本部に入りながら、東大寺でのオープニングセレモニーと、春日大社でのクロージングセレモニー責任者という大役も担っての参加となった。

祭りが終わり、片付けを終えて自宅のドアを開けた時だった。「長い間、遊んでいたんだから、さっさと家のことしてよ」前夫M氏の第一声がそれだった。正直なところ悲しかった。M氏にしたら私の活動は単なる遊びにしか思えないようだった。

その日を境にして、私の体調が崩れ始める。咳が止まらなくなってしまったのだ。最初は、疲れからの夏風邪かと思い、近所の内科で風邪薬を処方してもらった。しかし、幾日経っても咳は酷くなるばかり。

今度は大きな病院へ行き結核検査となった。が結果はシロだったので、そこでは急性気管支炎の薬が処方された。しかしこの薬を飲んでも一向に咳は止まらない。そればかりか、血痰が出始めるようになり、呼吸困難を起こすようになってしまった。隙を見て息を吸い込んでも、激しい咳で肺の中の空気が全て出てしまう、そんな病状だ。

自分でも鏡を見るのが苦痛になるくらい顔色が悪くなっていた。洗面所が毎日、血で赤く染まるのだ。やはり、普通じゃない。心配した友人が呼吸器科の名医の先生を紹介してくれた。

「肺癌の可能性がありますね」
先生は、あっさりそう言った。

「私…死ぬのかな…」

その時、私は初めて自分の死を身近なものとして意識した。

実は、叔父が数年前、肺癌で亡くなったのだが、宣告されてからほんの数ヶ月で逝ってしまったのだ。家庭の医学書を読んでも、私の病状は肺癌そのものようだった。

検査結果が出るまでの2週間、精神的にダメな状態だった。私は事務所に篭りながら『チベット 死者の書』を繰り返し読んでいた。いつしか私は、生も死もほとんど違いが無いという境地に至っていた。生かされている間は、精一杯生き、死を迎える時は、速やかに今生を旅とう。そう思うと、検査結果が出ることの恐怖も何も無くなっていた。

検査の結果、私は肺癌ではなかった。咳と呼吸困難は極度のストレス性によるものらしかった。

私は、自分の気持ちと正直に向き合う為、家のことをM氏に頼み10日間ほど行き先を定めない、自由な旅に出ることにした。

つづく…