「天の河に橋かけて」(4)

■[失われた感覚]

大手音楽プロモーション会社を辞めたのは、とてもくだらない理由からだった。

上司と後輩の不倫騒動に巻き込まれてしまったのだ。自分自身のことならいざ知らず…何故、上司と後輩の不倫騒動で、私があれほどまでに打ち込んでいた仕事が出来なくなるのだろう…。あまりにくだらなくて悔しかった。まだ若過ぎた私は、居直る図太さも持ち合わせず悩んだ末に、辞表を提出した。

その後、縁あって関西の企画会社に移り、更に縁あって結婚した。その頃には、社会生活をうまく渡り歩く術を覚え始めていた。そして、それと引き換えるように、純粋に持っていたあの「感覚」は必要ではなくなっていったのかもしれない。

目に見える世界だけがこの世の全てであり、科学で証明されていることだけが真実であるという思い込み。そして「幸せ」は、他者からの評価や社会的な地位、財産、世間体ということによって満たされると、私は信じて疑わなかった。

仕事はトコトン面白かった。
ファッションショーや様々なイベントの企画、構成、演出のイロハを教わった。そしてSP(セールスプロモーション)の企画にも携わっているうち、もっとマーケティングの勉強をしたいと思うようになり、慶応大学の経済学部に通信入学した。主婦業と仕事と勉強…。どれも楽しかったが無理が祟ったのか、その時期、切迫流産を繰り返ししてしまった。せっかく自分の中で芽生えた「いのち」が死んでしまう悲しさを幾度も経験した。

4度目の妊娠で、ミジンコのように小さな心臓が超音波で動いているのを見た瞬間、私は仕事も勉強も一切やめる決心をする。

月日が流れ、いつしか私は3人の子の母となった。

幼い子どもの手を取り、近くの公園を散歩しながら、野に咲く花や、流れる雲を見つめていた頃、今思っても至福の時を過していたのだと思う。

しかし…
いつしか幼い子供と接しているだけの自分に焦りを感じ始めていた。やがて長女が幼稚園に通い出した頃から、自分では気がつかないうちに、急速に物質的な価値観に著しく比重を置くようになってしまった。その頃、金銭的にそこそこ恵まれていた生活を送っていたことも要因の一つだったのかもしれないが、刹那的な教育論や競争心理を煽るお受験産業に何の疑問も持たなくなってしまった。高級マンションに住み、左ハンドルの高級車に乗り、有名フランス料理店やイタリヤ料理店でのランチタイムや、有名私立幼稚園と複数通わせていたお稽古に往復する日々が「幸せな生活」だと思い込んで過していた。 

だが、どこまで贅沢をしても、ランチタイムのお喋りを繰り返しても、私の心が満たされることはなかった。まったく無意識ではあるが本来の「自分」が必死で何かに抵抗しているかのようだった。そして、気がつくと「私」という存在がほとんど消えかかり「世間」という大波に飲み込まれそうになっていた。

私は自分の中で悲鳴をあげていた「私」を取り戻す為に、少しずつ動き始めることにした。

イベント台本を書き始めた頃から、ずっと学びたかったシナリオ学校に通い始めたり、仲間と様々な企画を遂行したりもしのも、その頃だった。やがて某新聞社系列の地域情報紙を発行している会社が記者を募集していたので、何気なく応募してみた。すると思いがけずパート採用となった。それがやがて会社員となり、数年後、記者としてだけではなく企画部のチーフに抜擢された。給料も徐々に上がり、会社主催でイベントを次々と催すことも出来るようになったので、心底、仕事が面白いと思った。それと同時に、3人の子供達がお世話になっていた国立付属小学校のPTA役員も引き受け、仕事の合間に、役員の仕事もこなしていた。

そして、念願だった脚本家としても連続ラジオドラマでデビューを果していた。ウィークデーの日中は会社で働き、夕方家事をこなして子供を寝かせつ
かせてから、夜中まで、時には明け方までシナリオを書く。ドラマの収録は、私の都合で土曜日にしてもらっていたので、土曜日には放送局でのラジオドラマ収録に立ち会うという日々が続いていた。

それはまさに充実の時だった。


しかし、阪神大震災に遭って意識は大きく変ってはいたが、あの「感覚」は、この時点ではまだ、蘇ってはいなかった。だから、相変わらず目に見える世界だけがこの世の全てであり、科学で証明されていることだけが真実であると思い込み、「幸せ」は、他者からの評価や社会的な地位、財産、世間体ということによって満たされると、まだ信じていた。

そう、あの日までは…。

つづく…