「天の河に橋かけて」(2)

■[運命の扉]

あれは、高校3年生の夏休みだった。

夏期講習を終えて、久しぶりにバンド仲間のチエと喫茶店で会った。

私は当時としては大変珍しい少女の部類で、中2の時からバンド活動をしていたのだが、チエは、高1の時メンバー補充のため、駅前の楽器店に張り出した募集の紙を見て、メンバーに加わった。

彼女は某有名私立女子大付属の高校に通っているお嬢様。公立高校に通っている私とは全く何もかもが違がっていたのだが、妙にウマが合った。結局、そのバンドは高校2年のはじめに解散したのだが、バンド仲間としては、私とチエだけが交友関係を保っていた。

久しぶりに会った彼女は、妙に大人っぽくなっていた。

「私、進路を決めたよ。やっぱり大学に行かないで写真の専門学校に行くことにする。本格的な技術も覚えたいしね」

実は彼女は、高2の時には趣味で始めていた写真で賞を取り、高3で個展まで開くという、その年齢で早くも実績を積みつつあったのだ。高校3年で、人生設計をきちんと立てているチエを私は凄いと思った。

「で、彩はどうするのさ?将来…」

「私?私は音楽プロモーション会社に入りたいの。コンサートやイベントの裏方って格好いいじゃない。だから、私、早稲田に行こうと思っているんだ」

放送局に勤務していた両親の影響もあってか、子供の頃から大学は業界に強いといわれる早稲田に行こうと決めていた。

だから、何の疑いも無く、その時点では早稲田を受験するつもりでいたし、夏期講習も勿論そのクラスを取っていた。

「でもさ、早稲田を出て、本当に音楽プロモーション会社に入れるの?もしかしたら、もっと専門的な学校へ行く必要があったり、早稲田は取らないとか言われたらどうするの?この際、きちんと調べた方がいいんじゃない?」とチエが言う。

「そうか…」
さすがに進路を決めている人は視点が違うな、と心底思った。

私はおもむろに、喫茶店のスミに置いてあった電話帳を広げて、私が入社したいと思っていた音楽プロモーション会社を探してみた。すると、電話番号の横に書いてあった住所が、今二人がいる喫茶店から、さして離れていないことがわかった。

「チエ、私ちょっとここに行って、直接聞いて来るよ。悪いけれどここでしばらく待っていて」

いとも単純にそう言って、私は駆け足で喫茶店を飛び出した。

まだ、高校生だった私はアポイントを取ってから行くということすら知らなかったのだ。

通りに面したビルの8階。古いビルのエレベーターを降りて曲がると、黄緑色に塗られたドアの上に、憧れの会社の表札がかかっている。

高鳴る胸を抑えて、私は軽く2回ノックした。

「どうぞ」

ドアの奥から、低い声の男性の声が聞こえる。私は静かにドアを開けた。
「失礼します」と言って入ってはみたのだが、誰もいない…。

目隠しに使っていたパテンションを通り抜けると、白いワイシャツを腕まくりをした50代くらいの男性が、一人でオムライスを食べている最中だった。

「誰?」

私は緊張しながら、思い切って言ってみた。

「社長さんはいらっしゃいますか?」

「私だけど…何か用事?」とスプーンを持った手を下ろしながら、とても不思議そうな顔をして私を見ている。その日のその時間帯は、どういう訳か他の社員の人が全員外出していて、社長一人だけが事務所に残っていたのだ。

心臓が口から飛び出しそうになりながら、私は一気に言ってみた。

「私は、今高校3年生なのですが、将来この会社に入りたいと思って、早稲田を目指しています。早稲田を出た後、こちらで雇ってもらえないでしょうか?」

今になっては、よくもまぁそんなに恥ずかしい言葉を堂々と言えたものだと我ながら感心する。

カチンコチンに緊張している私に、社長は「まず座りなさい」と言ってソファーに座らせ、それから言い聞かせるように言った。

「あのね、君が早稲田に行ったからといって、雇える約束は出来ないんだよ。東大の大学院を出ていてもいらない人は雇わないし、学校は出ていなくっても、必要だと思った人材は取る。社会ってそういうものだよ。それにね、君のような若い人が、熱病に浮かされたように、この業界で働きたいってやって来るけれど、そんなに甘いものじゃないし、華やかじゃない。それに思いのほか重労働なんだよ。3日間冷静になって考えてごらん。やっぱりヤーメタって思うから。悪いこと言わないから真剣に将来のことを考えた方がいいよ」

私は、頭が真っ白になりながら、その部屋を出て、チエが待っている喫茶に急いで戻った。

人生が、少しずつ動き始めていると、その時初めて感じていた。

つづく…