「天の河に橋かけて」(16)

■[明日に続く道]

1999年11月21日。
それは、私が今までの私と決別をした日だった。
東京へ向かう新幹線の中で、不安と希望と後悔が複雑に混ざり合う。車窓に、直前まで見送りに来てくれていた子ども達の顔が浮かぶ。

「お母さん、頑張ってね。応援しているから」
それは、苦渋の選択だった。

「東京で、今からしなければならないことがある」それは、私の魂が大いなる何かと固く決めたことなのだが、相反して私の心は頑なに拒否していた。

仕事もお金も何も無い中から、東京で何をどう始めるというのだ。そして何よりその選択は、愛する我が子達と別れて暮らすことも意味しているではないか。

結局、家族全員で話し合いの末、子ども達は当面、元夫M氏と共に神戸で暮らすことになった。引っ越した翌朝、目が覚めるとあまりの静けさに驚いた。昨日まで当たり前のように聞こえていた、子供達の騒がしい声がしない。5人家族の主婦だった私が、今日からたった一人ぼっちなのだ。

自分が選んでしまった現実に愕然とした。それから、何日泣いて暮らしたか覚えていない。朝が来るのも、夜が来るのも恐ろしい。ずっと一人ぼっちなのだ。
大都会、東京の中で…ただただ孤独だった。

東京に引っ越してから数日後、父の三回忌があり、北海道の実家に帰った。私は、少し元気になるまでしばらくの間、実家で過ごそうと思っていた。

当時、実家には母の他に兄夫婦と我が子とほとんど年が違わない甥と双子の姪が暮らしていていた。当たり前に暮らす、その普段の風景がその時の私には、この上なく辛かった。

結局、三回忌が終わった翌日、私は東京に舞い戻って来た。東京の狭いマンションの壁を見つめながら、私はしみじみ思った。

「私」という存在は「魂」と「肉体」と「心」とで成り立っているのだと。魂とは、輪廻を幾度も繰り返している自分の根源そのもの。肉体とは、この世の借り物ではあるが今生を生きられるのも肉体あればこそ。心とは、生まれてきてから現在に至るまでの自分の出来事につながり生じる感情そのもの。

例えば、今まで家庭を築いてきた主婦である「私」やPTAの役員であった「私」、ご近所付き合いをしてきた「私」や友達と仲良くやってきた「私」。でも、それらの「私」は魂の根源と深くコンタクトしていた訳ではない「肉体」と「心」だけの「私」。そして、魂の声に従い肉体を引きずるように東京へやって来たばかりの存在は、「魂」と「肉体」だけの「私」。

そのどちらも不十分な「私」なのだ。
私は「私」という存在を探したくて、誰かと語り合いたくてインターネットに没頭していた。パソコンの画面に向かっていると、朝も夜も孤独を感じなかった。そのうち、食べることも眠ることも拒絶しているうちに「肉体」が衰弱しはじめた。

そんな時、子ども達から電話がかかってきた。
M氏が神戸を離れて自分の郷里に帰る、と言い出したというのだ。「お母さんの元へ行きたい」。そんな子どもの声は、私を現実に引き戻してくれた。

そうだ、生きなければいけない。生きてこの東京でやる仕事があるのだ。この時、私は初めて自分の中心点に全てが集約されていく感覚を知った。

                           …つづく