「天の河に橋かけて」(11)

■[新たな道のはじまり 2]

大都会、東京。
やはりインターネットがこれだけ発達しても、現時点では、まだメディアの中心地であることは揺ぎ無い事実である。東京行きを決めた時、たまたま別件でカムイ・ルーという知り合いに電話をしているうちに、家探しの話になった。

「東京に出てくるのなら、根津がいいわよ。私は来月には新潟に引っ越してしまうけれど、すぐに来れるなら私が案内してあげる」カムイ・ルーとはアイヌ語で神の道案内という意味を持つという。私はすぐさま東京に向かった。

案内してもらったその場所は、東京のど真ん中だというのに、まるで時が止まったかのように静かだった。鎮守の森の向かいには、かつて森鴎外や夏目漱石が住んでいた跡地が残り、今も当時を偲ばせる下町風情が町のいたるところに残っている。

明治神宮が近くにある表参道に住むことも考えたが、なんともいえないノスタルジックなこの町並が気に入り、改めて、私は住む場所を探しに来ることだけを決めて東京を後にした。


それからの一ヶ月は、自分でも信じられないほど、大きな「何か」の流れの中にあった。

最初の天河太々神楽講の講元をさせて頂いたのは、東京から戻って来て1週間後のことだった。その年のはじめ、天河太々神楽講の世話役である谷島さんから、講元をやってみないかと声をかけて頂き、身に余ることとは思いながらも引き受けさせて頂くことにした。

天河は太古の昔から、様々な人が聖地として訪れている場だが、世界中の先住民族の人々とも、強い結びつきがあるようだ。私は前年の10月、クリンギット族のボブ・サムが初めて天河神社にやって来た時のことを思し、彼とも深い交流がある、アシリ・レラさんを講師に招いて「ネイティブ・スピリチュアルに学ぶ集い」というワークショップをすることにした。

初めての講元…アイヌ民族と神道の歴史的背景。ほとんど寝る間もなく、様々なことをしなければならなかった上に、知らないことがあまりに多すぎて、自分の未熟さを痛感する3日間となり、正直なところ辛い時間だった。たが、その時に宮司さんとレラさんを通して、真剣に「祈り」と「許し」ということを学んだような気がした。

太々神楽講を終えた直後、参加してくれていた友人が「明日、正午に六甲山にあるトーテムポールを見に行かない?」と誘ってきた。突拍子もないその誘いに、私は戸惑いながら「明日の正午、六甲山のトーテムポールを見てどうするの?」と聞いた。

「別に、これといって特別な用は何もないんだけど、なんとなく集まった人たちで、その時間に見に行こうということになって…アヤちゃんも行かないかなぁと、なんとなく思ったからさ」

「そうか…でも…私、明後日からアメリカのアリゾナに行って、ホピの村を訪ねてみるの。その用意が全く出来ていないから、流石に明日は行けないよ。ごめん」

そう。私は天河太々神楽講「ネイティブ・スピリチュアルに学ぶ集い」を終えた3日後、アリゾナへ向かうという、信じられないような強行スケジュールを組んでいたのだ。

天河から戻った翌日、私は久しぶりにゆっくりと寝ていた。午前10時半頃だったと思う。パジャマのまま、新聞でも読もうと思ったその時だった。

「今スグ、六甲山へ向かいなさい」
どこからか声がする。

私は疲れきっていた。だから、もしかして幻聴が聞こえているのかとも思ったが、どうもそうでもないようだ。しかし、例えどんな相手からの声であろうと、今は勘弁してよ…と思った。私は生意気にも、その声の主に向かって、言い返してみた。

「私は、昨日まで奈良に行っており、明後日からはアメリカに向かわなければなりません。今日くらいは休ませてください」すると、その声の主が更に続けた。

「何の為に今、動いている?」
「ネイティブの魂に触れ、そして学ぶ為です」
「トーテムポールとは何なのだ?」

私は、ハッとした。
トーテムポールはネイティブの魂を木に彫ったものではないか。そうか、全て繋がっている流れなんだ…。でも、もう約束の時間には間に合いそうにないし…第一、どうやって向かおう…。そう思った瞬間だった。

平和イベント「神戸からの祈り」の時に一緒にスタッフとして関わった友人から電話がかかってきた。

「これと言った用事じゃないんだけど、今日、急に暇になって。もし時間があったら、会わない?」

「暇なんだけど、暇じゃないの……」

私は、簡単に事の成り行きを説明した。すると、すぐに車で一緒に向かってくれるという。

「急げば、正午に六甲山のその場所に着くよ!」

即効、顔を洗い着替えて、私は家を飛び出した。


              つづく…