「天の河に橋かけて」(最終回)

■[TEN]

21世紀に東京でしなければならないことがある。

到底、他の人からは理解しがたい理由で東京に出てきたはいいが、3ヶ月経っても何をどのようにして生きていけばいいのか皆目見当がつかなかった。そんなところに長女が東京にやって来た。次女と長男は今、皆でM氏を見捨てたら可哀想だからと当面、M氏の故郷金沢で暮らすことになった。

私は僅かな預金も、母から借りたお金も、保険を解約して工面したお金も底をついていた。自分の生活の目処すら立たない状況のところに、長女一人とはいえ、親として育てなければならない責任がある。

私は、とりあえず就職しようと思った。そして就職情報誌を買ってきて、娘にそのことを話した。すると、娘はまじまじと私の目を見て言った。

「お母さん。お母さんが神戸から東京に出て行くことを決めた時、東京でしなければいけないことがあるって言っていたじゃない。もしも、就職してしまったら、その会社で働くことが生活のリズムになってしまうから、本当にやらなきゃいけないと思っていることが出来なくなってしまうよ。私は毎日納豆ひとつだって構わないから、頑張って本当にしなければいけないことをやってよ、応援するから。就職して働くのなら、天川 彩なんて名前だっていらないはずでしょ。お母さんがしなければならないことを忘れないで!」

今、考えてみても、この言葉がなかったら、今の私はなかったと思う。その直後、私はインターネットでライター仕事を見つけて、どうにか生きていく目処をつけながら、自分の立ち居地を探っていた。

大きな転機が訪れたのは、2000年の10月。
「神話を語り継ぐ人々」という催しの東京実行委員会の代表になった時からだ。この催しは、映画「地球交響曲 第3番」にも登場する写真家の故星野道夫氏がアラスカで出会った先住民族・クリンギット族の友人たちを日本に招いて、全国数箇所で神話を聴こうという催しを大阪に住む写真家の人が企画したものだった。その東京での催しの責任者として私が関わることになった時、どうしても事務所が必要となった。

必然的に事務所を要する状況は98年の平和イベント『神戸からの祈り』の時と同じだ。この時、イベントの事務所として「オフィスTEN」を開いたのだが、このように必然的に何かが必要となった時は、信じられないような動きが起こる。結局、あれよあれよという間に、私は自宅から程近い場所に新たな「オフィスTEN」を構えることとなった。

20世紀の終わりの12月、神話のイベントを終え、広島や韓国で祈りの時を終えた私は、21世紀の元旦を天河で、3人の子どもたちと共に迎えることが出来た。このことがきっかけで、下の子どもたちも、それぞれのタイミングで東京にやって来ることが出来たのである。

そして21世紀の節分明けから本格的に東京での「オフィスTEN」の動きが始まった。あれから20年。

子どもたちは、すっかり大人になった。私の仕事を応援してくれながら、それぞれに好きな仕事に励んでいる。

東京に出て来て出会った夫は、私の最大の理解者である。結婚した翌年には、縁を結んでくれた貴船神社にお礼参りを兼ねて、川床料理を食べに連れて行ってくれた。

そして
オフィスTENは、たった一人で始めたこの仕事は、魂の根源を共とする掛け替えのない仲間たちと出会えたことで、今、着実に様々な実を結びはじめている。

天と地と人を結ぶ仕事。
それが私に課せられたことなのだろう。私はこれからも、全てに感謝しながら天の河に橋かけていきたいと思っている。

                         完