『たまたま (6)』

その期間の記憶はほとんど無い。
ほぼ毎日、不眠不休だったように思う。

様々な経緯や思いがあって集まった実行委員会の人々。一人ひとりの考え方や関わり方が違う人たちをまとめ、そして自分が企画提案者でもないイベントの陣頭指揮を取ることは、想像以上に厳しく難しかった。また「色々な経緯があって、立ち消えになった」と聞いていたメディアとのからみも、イベント直前になって急再浮上したらしく、全く私には知らされないまま、事が動いて戸惑うこともあった。しかし、多くの心ある人々に助けられ支えられて、どうにか事が運んでいった。

あっという間に12月になり、クリンギットの人々が日本にやって来る日になった。
空港まで迎えに行って、彼らが出てくるのを待つ段階になり、ハタと気が付いた。
「どうしよう…私は英会話ができない」
しかし、そんなことを今更思っても仕方が無い。

ゲートから出てきた彼らと、笑顔でカタコトの会話を交わした。
そして、自己紹介をすると彼らの中で一番若い女性、ナイナが大笑いした。
あまりにカタコトの英語はおかしかったのか?
それとも変なこと言ったんだろうか…。
すると「ayaというのは、クリンギット語で『知らない』という意味なんだよ」と誰かが通訳してくれた。ナイナは私の顔を見るたび「aya」と言ってはゲラゲラ笑っていた。
ホテルで夕食を一緒にとった時、私はたまたまナイナの隣に座った。
そうか、ナイナは「無いな〜」だ!とひらめいた私はNothingとナイナに言った。
一瞬、ナイナはキョトンとしていたが、また誰かが通訳してくれて大爆笑となり、私とナイナの間に、暖かなものが流れ、心の距離が急速に縮まった。

2000年12月は激動の1ヶ月だった。
12月1日にクリンギット族の彼らを迎え、明治神宮での準備をほぼ整えた後、4日には北海道へ向かう。札幌実行委員会主催で催す彼らの最初の公演を観る為だ。会場は満員。舞台上では、クリンギットの歌や語りと共に札幌の若きアイヌのグループ「アイヌアートプロジェクト」による、素晴らしい歌と踊りが披露されていた。
その日、打ち上げ会場で「アイヌの船(イタオマチップ)をアラスカまで出向させたいと思っています」と、たまたま彼らが言っているのを耳にして、私は驚いた。何故なら、私も99年の後半から、あるひとつの想いをいつか実現させたいと考えていたからだ。


『ジャパンルーツプロジェクト』

それは、5千年から1万年前の縄文時代、私達の祖先が交流していたであろうルートを実際に辿る旅だ。
何故、私がこのプロジェクトをしようと思ったか、理由は簡単。
日本人としての誇りを私自身が取り戻し、多くの日本人にも取り戻してもらいたい、と思っているからだ。
私たちの祖先は縄文時代、世界に稀にみる技術と高い霊性を持って暮らしていた。青森の三内丸山遺跡などを見ても、その精密な技術力や精神性は確かだ。カナダやアラスカの先住民族に伝えられている神話と、日本の神話を摺りあわせていくと、確かにどこかの時代で私たちの祖先たちが、高度な海洋術などを駆使して交流していたようにも思える。
私の親友は在日韓国人で、民族に誇りを持って生きている。
他の国の友人達も、先住民族の友人たちも、それぞれ自らの血に誇りを持って生きている。
では、私は?
自らそう問うと、答えに行き詰まる。私は、戸籍上は日本人だ。
しかし、私の中には当然、アイヌ(縄文系)の血も渡来人(弥生系)の血も同時に流れている。それを認めた上で、日本人としての誇りを今いちど取り戻したいのだ。
私達の祖先が縄文の時代に、黒潮の海路を辿った遥かなる旅路を、21世紀、私はバーチャルではない、現実のものとして再現してみたいと考えている。
民族としての誇りを私達自身が取り戻し、同時に、次世代にその誇りを繋ぎたいと思っている。

99年の春、私とボブ・サムは、和歌山にある熊野灘の海を二人で眺めていた。
遠い昔、どこかで確実に繋がっている。
言葉にならない会話を二人でしていた。
その時からなのかもしれない。
私がこの遥かな夢を擁き始めたのは。

この年の秋、天河神社の宮司さんにこのプロジェクトの話をした。
そして、友人のデザイナー青木さんご夫妻と共に『ジャパンルーツプロジェクト』の特別正式参拝を受けた。宮司さんは、前年の98年夏にボブ・サムの強い願いから、熊野の山中を1週間かけて共に歩いた経緯があった。
その折に、宮司さんはボブ・サムが、いつか自分達の先祖がしたように、カヌーで日本に来たいと話したそうだ。
帰国間際、日本有数の宮大工さんから、特別に道具を授かったそうだ。
いつ、実際に動き出すかはわからない『ジャパンルーツプロジェクト』とボブ・サムの夢。しかし、いつの日か、リンクするような気がしている。

アイヌアートプロジェクトの人々と初めて会った日、私はもう一人同じようにアラスカまでカヌーを出したいと夢を持っている人と会った。
知床でガイドをしている藤崎さんだ。
実は、10月に屋久島へ行った折、レラさんとランディさんに、このプロジェクトの話をしていたのだが、後日ランディさんから「アラスカのカヌーの件で、彩ちゃんと連絡を取りたいと言っている人がいるよ」と連絡があった。
藤崎さんは、北海道からアラスカまでカヌーに乗って行きたいと思っていたそうだ。

目に見えぬ「想い」が同時多発的に点と点となり、それが繋がってゆく。
この壮大なプロジェクトは、私達の気が付かないところで、少しずつ動き始めているのかもしれない。

2000年12月5日。
私は青森へと飛んだ。
11月の中旬、龍村監督の奥さんから、ランディさんを紹介して欲しいと頼まれたのがきっかけで、青森にある佐藤初女さん主宰の「森のイスキア」で会うことになったのだ。
青森空港から小一時間。
岩木山の麓にある三角屋根の建物の前で車が止まる。
「カーン・カーン…」と雪のなかでベルが響く。
歓迎の音とは、なんと暖かいのだろう…。

この日が、佐藤初女さんとの最初の出会いだった。
佐藤初女さんは、長年、心が傷ついた人の話を聴き、食を通して人の心を復活させてきた『森のイスキア』の主宰者である。龍村監督の映画を通して、その活動は一躍知られるところとなった。
初めてお会いした初女さんから、優しさと厳しさを兼ね備えた力強さを感じた。
丁寧に作られた心からのおもてなし料理と、イスキアに集い歓迎してくれた人々の愛情とで、私の体中の細胞までもが喜んだ夜だった。

翌朝、目を覚ますと、すっぽりと深い銀世界の中に包まれていた。
防寒着に着替え、完全武装した私はスコップを持って、外に飛び出した。ランディさんと同行した編集者の男性陣に交じり、公道まで車が出せるように、体力勝負の雪かきだ。
北海道生まれの私は、雪かきが懐かしく、楽しくてしかたなかった。
嬉しくなった私は、子どもの頃したように、フカフカに積もった新雪の中にバタンと倒れ込んでみた。グレーの空から降りしきる雪。
空と雪と自分の間に境界線が無くなる様な感覚だ。
小一時間ほど雪かきをした後、濡れた洋服と手袋をストーブに翳し着替えて、今度は、朝食の準備を手伝うことにした。
自慢ではないが、私は料理が得意なほうだ。
ニンジンを短冊切りにするように言われた私は、手早くさっさと皮を剥き、細目の短冊に刻みはじめた。
しかし、しばらく私の手元を見ていた初女さんから一言。
「人参の気持ち、食べる人の気持ちになって、人参を刻んでいないでしょ。だから、こんなに不均等な切り方になるのよ。大きさが違うと、湯がいた時に煮え方が違ってくるでしょ。はい、もういちどやり直し」
そういわれると、次に刻んだニンジンも、形がなかなか整わない。
そして、その後炊き上がったご飯で、おむすびを握ることになった。
いつもは難なく握っていたおむすびなのに、妙に難しく感じる。
私は、改めて食と愛情という意味を考えさせられた。

森のイスキアから青森空港に向かう途中で、吹雪になってきた。
飛行機が離陸待機している。
仕方なく時間つぶしの為に入った喫茶店で、龍村監督がポツンと言った。
「道夫(星野道夫氏)の亡骸がカムチャッカから着いたのが、この青森空港なんだよ。ここの空港で道夫の遺体と最初に対面したのさ。ここに来ると、道夫が何かを言っているように感じるよ」。
私は、不思議な感覚になった。

しばらくして、吹雪が止んだ。
飛行機は大幅に遅れたが、東京まで飛んだ。
事務所に着くと、何人かのスタッフが私の帰りを待っていてくれた。
イスキアからの帰り際、初女さんが「お腹が空いたら食べなさい」と言って持たせてくれたおむすびを、みんなで分け合って食べた。
みんなの顔がほころんだ。

いよいよ、3日後には本番を迎えようとしていた。




つづく・・・・・