『たまたま (3)』

私は右手にしっかりと『森と氷河と鯨』を抱えて、レラさんの部屋へと向かった。
まだ、辺りは暗い。他の部屋の人が起きないように、そっと音を抑えて幾度がノックをすると、ややしばらくして扉が開いた。
「どうしたの?こんな時間に。まぁ、とにかく入んなさい」

レラさんはゆかたの裾を正しながら、熱いお茶を入れてくれた。ただならぬ時間に私が押しかけてきたことに何かを察しているようだ。とりあえず私たちはそのお茶を持ってバルコニーに出ることにした。

眼下には、鉛色の雲が垂れた永田浜が広がっている。


私は話すタイミングが見つからず、ただ風を感じていた。
どのくらい時間が過ぎただろう…。

海の上で鳥が舞った。
私は話すタイミングであることを感じた。
「レラさん、この写真みてください」
私は『森と氷河と鯨』の中にある1枚の集合写真を見せた。クリンギット族の人達が、大勢草原に集まり笑っている写真だ。

「あら、随分と私たちに似た人達だね」
レラさんは、そう言うとパラパラと本をめくり、友人のボブ・サムの章で手を止めて
丹念に読んでいる。

私はゆっくりと経緯を話し始めた。
20世紀の終わり、彼らが日本へやって来ること。北海道では故星野道夫さんの魂送りが阿寒のコタンで行われること。北海道公演も含め全てのスケシュールは既に決まっており、私はそこに関与できないこと。今回はレラさんとクリンギットの人々が会う時間をつくるのは無理だと言われていたこと。
ここまで言うと、私はレラさんの手の中にある『森と氷河と鯨』の頁をめくり、エスターシェイの言葉の章を開いた。

「ここを読んでみてください」
レラさんは、私に促されるまま本に目を落とした。
やがて、静かに本から目が離れた時、私は言った。

「エスターは、民族の言葉と文化を次の世代の為に伝えることこそが、自分の役割だといっています。レラさんも、全く同じ役割ですよね。エスターが日本で一番会いたいのは、もしかしたらレラさんなのかもしれません。私は力不足で、レラさんが住む北海道でその機会をつくることはできないのです。でも、私は東京実行委員会の代表です。そう…東京での催しならレラさんをゲストとして呼ぶことができます。ただし…」

ここで、言葉が詰まってしまった。
なぜなら、東京の会場は、明治神宮なのだ。

過去何年かに渡り、レラさんと様々な場所へ行った。
私は神社の凛とした空気が好きなものだから、行った先に神社があるとほとんど参拝をするのだが、その都度レラさんとは、ひと悶着あった。レラさんは鳥居の中に入ることすら嫌なのだ。いにしえから続く民族迫害の悲しい歴史があるので、当然といえば当然だ。

例外といえば、天河神社くらいだろうか。天河神社では、宗教も民族も国境も全くこだわらず、全てを受け入れているので、世界中から多くの先住民族の人々もやって来る。
レラさんも過去2度天河神社を訪れ、99年には「ネイティブスピリチュアルに学ぶ集い」という講での講師も引き受けてくれている。

しかし、今回は事情が違う。
なんといっても、明治天皇を祀っている明治神宮だ。

正直なはなし、これ以上続けて言うのが恐ろしかった。
私はカラカラに乾いた喉に、冷めたお茶を喉に流して「会場は、明治神宮です。…無理なお願いをしていることは承知しています。でも、私はどうしてもエスターやクリンギット族の人々にレラさんを会わせたいのです。ボブさんとも再会して欲しいのです。
レラさん、明治神宮での催しにゲストとして来てくださいませんか?」と一気に話した。

長い長い沈黙が続いた。

「そんなに必要なことなら、行きましょう」
レラさんの言葉に、私はわが耳を疑った。
「レラさん、舞台に出てカムイユーカラを語って頂けるのですか?」
「私でお役にたてることならば、構わないよ」

気が付くと、海は朝日でキラキラと光っていた。

私は、喜びを胸に数時間後ひとり東京に向かった。しかし、飛行機の中で、大変な事態に気がついた。
レラさんからは承諾を得たが、明治神宮から承諾を得たわけではなかったのだ。
明治神宮側のほうから、歴史的な問題が大き過ぎるため受け入れられないといわれる可能性が高いのではないだろうか。
そしたら、私はなんとレラさんにお詫びしたらいいのだろう。

またしても喉がカラカラに渇いた。





つづく…