『たまたま (10)』


21世紀に入った途端、状況は刻々と変化した。
オフィスTENが本格的に始動したこの年、私は癌になった。

心と魂、そして肉体は常に三位一体状態なのだと、
身を持って経験できたことは大きい。犠牲的精神では、
身体を痛めてしまう。癌摘出手術を終えて、日々回復する中で、
私は自分に出来ることを力まず、楽しみながら進めようと決めた。
肉体あってこその、今生なのだから。

いくつかのイベントやツアーを重ねながら、少しずつオフィスTENらしい活動を
推し進めていた2003年秋、アラスカのナイナから「日本に来たい」という連絡があった。
彼女とは2000年のイベント以後も、時折メール交換をしていたのだが、
具体的な話になったのは、この時が初めてだった。
アラスカ先住民族と十数年の付き合いがあり、英語が堪能な神奈川県在住の
祐子さんがバイパス役となってやりとりを重ねてくれたお陰で、イベントとワークショップを
組み合わせたナイナの来日が決まった。

「神話から未来がみえる」と題したイベントでは、アラスカの神話と日本の古事記とを
対峙させるという試みをしてみた。
通訳は、エスターの息子で、ジャクソンファミリーの末息子、ノーマン・ジャクソンの
婚約者であったもう一人の祐子ちゃんにお願いした。
(現在はノーマンと結婚して、ユウコ・ジャクソンになっている)
「古事記のものがたり」の著者でもある宮崎みどりさんが、日本の神話を、
ナイナが自分の家系に伝わる神話を語ってくれるという、静かでシンプルなイベントだったが、
よい時間を提供できたと思う。翌日のワークショプは、アラスカに伝統的に伝わる
モカシンシューズを作るというもので、こちらも満員御礼の状態で開催できた。
その後、ナイナは北海道のアイヌコタンに訪問し、再び戻って来た時には、帰国直前だった。
ナイナは星野道夫さんのご遺族に、自宅近くで拾った「ウキ」を渡しに行こうと考えていた。
ナイナの話によると、「ウキ」はアラスカでは製造されていないらしく、
遠く日本からやって来たものだという。
遠く離れた日本から、たった一人でアラスカに漂着し、アラスカの大自然の空気や文化に
大いに触れた「ウキ」の姿が道夫さんと重なって思えたらしい。だから、どうしても、
道夫さんの遺族の方に届けたいと思っていたそうだ。

しかし、あいにく連絡した時、星野家の皆さんは酷く風邪をこじらしていたようで、
会って渡すことができなかった。
帰国間際、ナイナは私に「この『ウキ』を星野道夫さんのご家族へ
どうか直接届けて欲しい」と私に手渡した。
青くて透明な、ガラス球。それは、両手の中にすっぽりと入ってしまうほど
小さなものだったが、大きな思いが込められ輝いていた。私は、壊さないよう、
しっかりと両手で受け取り、必ず私に行くことを約束した。

ナイナが帰国して1ヶ月後。私は預かった「ウキ」を持って星野道夫事務所を訪ねた。
奥様の直子さんとは、2000年のイベントの際にお会いする予定だったが、諸事情が重なり、
お会いすることが出来ず、3年の月日を経てやっとお会いすることができたのだ。
「ウキ」を渡し、積もる話もし終えた頃、ちょうど地元で開催中だった
写真展へ一緒にどうですか?と直子さんが誘ってくれた。
大きな写真パネルが天井から何枚も何枚も吊り下げられ、その下に説明書きがある。
ありがたいことに、直子さんが、その一枚一枚の前で静かに、そして丁寧に道夫さんとの
思い出話しや、エピソードを語ってくれた。
私は、胸が熱くなった。なんて、豊かな時間なのだろう…。

それから、わずか数日後だった。エスター・シェイの訃報が入った。
ノーマンの婚約者であった祐子ちゃんは、すぐさまアラスカに飛び、しばらくしてから、
無事にお通夜や葬儀に間に合ったとの連絡がきた。
30年以上に渡って、クリンギットの言葉や文化を人々に教え、分かち合ったエスターの
功績が湛えられ、地元新聞の一面を飾ったそうだ。

年が明けて、2004年。ナイナから再びメールがきた。
エスターの葬儀で、ボブ・サムと4年ぶりに会ったらしく、
彼は落ち込み続けている、という知らせだった。
2000年のイベントに関わったことで、私自身、大きく傷つく
ことがあった。人間不信に陥りそうなほど、不本意なこともあった。しかし、
心底信じられる人たちとも出会い、更に今の夫と再婚し、
素晴らしいスタッフにも巡り会うことができて、私の心の傷は完全に癒えていた。
しかし、ボブは4年間、心が晴れないまま過ごしていたという。

私は、再びボブ・サムに会おうと思った。何が出来るかわからないが、
とにかく彼と会わなければ・・・。私の思いは、ただそれだけだった。
3月の終わり、彼と会える確約もないまま、南東アラスカに向った。

                                 つづく…