■「森羅万象への旅路」最終回

1月15日、熊野から東京に戻ったわずか1週間後、またまた私たちは
熊野へと向った。

今回の主な目的は、川の参詣道撮影だ。
川の路は、かつて熊野本宮から速玉大社まで進むために、多くの人々が
この川の路を利用して参詣道としていた。
その歴史的な事実から、川の路も世界遺産登録されている。
しかし、現在は川に沿って国道があることと、ダムが出来た関係でかつ
てのような水量が保てないことなどから、舟で本宮から新宮へ下ること
は容易ではない。
写真家のクスモトさんの紹介で出会えた、ショウジさんの心意気で、特
別に舟での撮影が可能となり、11月のロケハン以来、2度目の川の路
だ。有難いことに、天候にも恵まれた。
本当に最高の撮影ができた。

東京に戻った直後、女優をしている友人の高樹沙耶さんから電話がかか
ってきた。

「アヤさん、今年の節分祭、天河に行くの?」

水の神であり、芸能の神でもある天河神社は、フリーダイビングをする
女優の彼女にとっても大切な場のようだ。2年前には、宮司様の計らい
で、一緒に川で禊もした。
今年の節分には、どうしても天河に行きたいと思ったらしい。
私達のスケジュールは、熊野・天河・熊野だったので、前半まで同行す
るという。


2月2日。

この日は、熊野市にある花の窟神社のお綱掛け神事が行われていた。
花の窟は、日本神話の中で、神産みの母として登場するイザナミノミコ
トの葬られているお墓だ。
ここに年に2度、2月と10月、大綱がかけかえられるご神事が執り行
われている。
なんと、日本書紀にその記述が記されており、この有馬村(現在は有馬
町)の人々は、2千年もそのまま守り続けているご神事なのだ。
幾度か、この花の窟の撮影はしてきたが、いつもはほとんど人がいない
この場所に、人が溢れかえるほどいる。

天気は、日本晴れ。
沙耶さんも私も、すっかり地元の人々の間に混じって、ご神事に立会い
大綱を地元の方々と一緒になって、持ち上げながら浜辺を歩いた。
前の年の秋、この場所で地元の男性達が大綱を編み上げている姿を思い
出す。長い長い時間、このご神事は変わることなく続いているのかと思
うと、有難さのあまり胸が一杯になった。

ご神事終了後、熊野からすぐに天河に向かった。
この日の夜は、節分前夜の「鬼の宿」と呼ばれているご神事がある。
これは、節分の日、随所で忙しく働かなければならない鬼神様に、この
日ぐらいは、ゆっくり休んでもらおうと、毎年新しく作られる真綿の布
団と、握り飯、そして手と足を洗う桶を置いておくもので、鬼の子孫と
いわれているこの地域の人々にとっても、重要なご神事なのだ。

天河は、温暖な南紀の気候の熊野とは、打って変わって白銀の世界だっ
た。

天河神社の多々あるご神事の中でも、特にこの「鬼の宿」と「七夕祭」
は、幻想的な雰囲気の中で執り行われる。それは、共通して薄ぼんやり
としたロウソクの火が印象的だから、そう思わせるのか、それとも究極
の緊張の後にある緩和の喜びが、そう思わせるのか…。
とにかく、美しいご神事なのだ。

鬼の宿、そして翌日の節分祭が終わり、いよいよ立春。
私は、長い間2005年の節分が明けると、時代の流れが大きく変わる
と思っていた。そして、節分が明けて立春がやってきた時、確かに何か
が大きく変わったような実感があった。

仕事の為、一足早く東京に戻る沙耶さんを見送り、翌2月5日早朝。

私は、なんとも不思議で有難い体験をした。
今までも、幾度か不思議な体験はしてきたが、こんなに強烈な体験をし
たことは初めてだった。
そして、それは私自身の役割を、改めて肝に銘じるきっかけにもなり、
目に見えぬ大いなる存在の、揺ぎ無い愛情のようにも感じた。

2月6日。
この日は、新宮市の神倉山で行われる御燈祭りの日だった。
この祭りは、女人禁制の男の火祭りで、約二千人の男たちが、松明片手
に、一気に下山してくるという、勇ましい祭りなのだ。

新宮市に着いたところで、カメラマンのケンちゃんと、ちょっとしたタ
イミングのズレから、はぐれてしまった。それも、カメラは私が持った
まま。この祭りは、カメラの撮影も女人禁制なのだ。

速玉大社の宮司様と、幾度も打ち合わせを重ねてきた重要な撮影の日だ
ったのだが、カメラマンのケンちゃんと連絡がつかないのでは、どうし
ようもない。
私は、このような大変なアクシデントが起こった時、いつも「これは必
要があって神様がこのようにしているのだ」と思うことにしている。
いや、事実そうなのだろう。
だから、むやみに焦ったり、パニックに陥ったりはしない。

穏やかに、冷静に過ごしていたら、きちんと事は運ぶのだ。

駅に行くと、なんと昔からの知り合いウスイさんが、時刻表の前に立っ
ていた。
ウスイさんは、知り合いの方に誘われて、御燈祭にやって来たらしい。
私は、とりあえずウスイさんと一緒に速玉大社へ向うことにした。
しばらくすると、ウスイさんの知り合いの方が現れた。なんと、菅原道
真公の直系のご子孫の方だそうだ。あまりのことに少し驚いたのだが、
その方から、一緒に中へ行きましょうと誘われたので通常、入れない場
所まですーっと入っていくことになった。

そこでは、登り子と呼ばれる氏子や崇敬者の男性達が、白装束に着替え、
大きな松明に願かけの言葉を書いていた。
そして、腰の綱を巻き終え準備が整った人たちひとり一人に、宮司様が
清めの酒を背中に吹きかけていた。
なんと清らかな人々の姿なのだろう…と私は一人感動していた。

そして、親子三代で登るという家族と知り合い、様々な話を伺った。
この地に生まれ育った人々が、どれほど自然と一体になること、そして
神々と真摯に向きあうことを大切にしているのかをじっくり聞くことが
できた。

私は、きっとケンちゃんとはぐれることで、この祭りの本質を知る必要
性があったのだろう。
結局、御燈祭の時間が迫っても、ケンちゃんとは連絡が取れなかった。
私はこの祭りの撮影を諦めた。何故なら、きっとそれは神様の意思なの
だろうと強く思ったからだ。

速玉大社でお参りを済ませた人々が、神倉山の御燈祭に皆、向った後、
人の気配がなくなった神社で、数人の人たちがお掃除をしている姿が目
に入った。
登り子の人たちが、互いに気合を入れる為、松明を重ねるのだが、勢い
余って、ぶつけ合いになっている人たちも多々いたようで、松明の木屑
が境内いっぱいに落ちていたのだ。

私は、神倉山の麓に行くことをやめて、掃除を手伝うことにした。
神社の境内は大きい。ふと気が付くと誰も人がいなくなっていた。

その時だった。
「熊野大権現」という言葉が、どこからか何度も聞こえてきた。
そうか、この映像のタイトルは「熊野大権現」なんだ!

そう思った途端、有難すぎて涙が出てきた。

そして、泣きながら、ケンちゃんに電話をかけてみると、なんと昼間か
らずっと通話できなかったのに、繋がったのだ。
多くは語ってくれなかったが、ケンちゃんも熊野の神様と対話しながら
1日を過ごしていたのだろう。

そうして、私たちは東京に戻って来た。

その後、4月に最後の補足撮影に熊野へ行った折、新宮市観光協会のテ
ラマエさんという方といい出会いをした。有難いことに、御燈祭りの映
像部分は、テラマエさんの知人の方が以前撮影していたものを使わせて
いただけることになった。

こうして、熊野の撮影は全て終了した。

その後これまた熊野の神様の導きとしか思えない不思議な出会いで、編
集や音楽、デザイナーなど、それぞれ熊野と何らかの縁のある人々と繋
がり、一つの作品として出来上がった。

この作品は、評言社という出版社からの依頼から始まり、私は監督とし
て関わらせていただいた。
しかし、どう考えても熊野の神々…そう、熊野大権現のお手伝いをさせ
ていただいたとしか思えない。

私の力など、本当に微力なのだから。


                      終