DVD「熊野大権現」撮影雑記


■「森羅万象への旅路」7

熊野古道一の難関と昔から言われている「大雲取越え」の道は険しい、
そう覚悟しながら鬱蒼とした古階段を登っていたら、急に視界が開けた。

まだ、登り始めてまだいくらも経っていない。
しかし、目の前に現れたのは、芝生の巨大な広場。そして子ども向きの
真っ青なローラースライダー。何?これ…?
険しい山だと覚悟して登山しはじめたばかりだというのに、どういうこ
となのだろう…。
私の手持ちの資料には、そんな場所のことは記されていなかった。
気が萎えたのが災いしたのか、その広場で道に迷ってしまった。
古道の表示も見渡す限り見えない。勘の赴くまま歩いてみるが、どうも
違う。私たちは、芝生の入り口まで戻り、もう一度ゆっくり古道を探し
た。今度は見落としていた小さな標識が目に入り、やっとのことで古道
に繋がる道に出た。

後で知ったのだが、そこは那智高原公園といって、県の公園施設らしい。
今「大雲取越え」をする人の多くは、そこまで車で来て登る人が多いそ
うで、本来のルートで歩く人が極端に少ないのだろうか。なんとも不親
切な気がした。

気を取り直して、また歩き始める。厳しい山道が続き、陰気な鬱蒼とし
た杉林の石畳の坂道の途中、熊野灘が一望できる場に出た。見晴らしは
いいのだが、なんとなく異臭がする。動物の死臭のような、胸が悪くな
るような臭いだ。私はなんとも落ち着かなくなり、足早にその場を離れ
たのだが、後からガイドブックを見ると「死出の山路」と書いてあり、
背筋が寒くなった。

しかし、そこから離れるとそんな臭いは一気に無くなり、ただ険しいば
かりの山道となった。数時間歩いた頃、巨大な球形の苔石がゴロゴロと
いくつも出現。直径は私の身長くらいだろうか。なぜ、このようなまん
丸な石がこのあたりにあるのか疑問だったが、フサフサの苔がまるで坊
主頭のようで、なんとも可愛かった。
だが、現在の大雲取り越えは、そんな山深い細道ばかりではなく、時折
車道と入り混じった、少し情緒に欠けた箇所もある。

一番おかしかったのが、険しい崖道を下ってやっと出てきた地蔵茶屋跡
という場所でのこと。
私達はリュックに登山靴、そしてレインウェアーを腰に巻いて、汗だく
で歩いてきたのに、やっと出てきた開けた場所は車道。そして、新しい
休憩所を近くで作っていた大工さんたちは、のんびりと昼食を食べたり
昼寝をしているのだ。

5時間以上かけて山道を歩いてきたのに、この日常の風景。またしても
気がちょっと萎えてしまった。

が、それがまた災いしたのだろうか…。
再び山を歩き出し、急勾配の坂道を歩いていた時、キョウちゃんがおか
しなことを言う。
場所は胴切坂。

「あれ?さっきの人たち何処へいったんでしょうね?」

私が「さっきの人たちって誰?」と聞くと「え?あそこにかなり沢山の
人たちが、リーダーのような先生のような人の説明受けていましたよね
?」という。
山の中は、微かに聞こえる鳥のさえずり以外は、静まりかえっている。
私の目には誰も見えないし、気配も感じない。
私が首を横に振ると「冗談ですよね?いましたよね?」と念を押す。
キョウちゃんが、一瞬固まった。

その時、けたたましく鳥が鳴いた。

更に奥深い急勾配の坂道を2時間ほど歩くと、円座石(わろうだいし)
という石の前に出た。円座とは神職が用いる藁で編んだ丸い敷物のよう
なものをいう。熊野の三所権現がここに座り談笑している姿を梵字で表
したもので本宮ー阿弥陀仏・速玉ー薬師物・那智ー観音物が鎮座してい
る。
私は、あまりのありがたさに、ここまで8時間歩いた疲れも吹き飛ぶよ
うだった。

そして、更にもう少し頑張って歩き、小口という集落に出た。
澄んだ川の水が美しい小さな集落は、どこか懐かしさを漂わせている。
この日の泊まりは、小口自然の家。
地元の中学校を改築して、地域の宿泊施設になっているのだ。
午後5時。私達は、小口自然の家に到着し、まず大きなお風呂で汗を流
し、足の疲れをほぐした。
そして、私は夕飯前にある人物に電話した。

出発前、パッチワークハウスのブワさんから「小口に行ったならタテイ
シさんという人に会うといいよ。変わっている人だけど、いろんな情報
を教えてくれるよ」と電話番号のメモを手渡されていた。

約束の午後8時、スキンヘッドに眼力の強い男の人が、自然の家の玄関
口に迎えに来てくれた。車に乗ると「では道場へ」と言う。

道場??私たち何処へ連れて行かれるんだろう…?

キョウちゃんと二人で、顔を見合わせた。

                        つづく…