DVD「熊野大権現」撮影雑記


■「森羅万象への旅路」18

那智には幾度も通いながら、那智の宿坊に泊まったのは、この時が初め
てだった。

那智大社の隣に経つ、青岸渡寺(せいがんとじ)は、西国三十三霊場の
第一番札所であると同時に、熊野三山の一つでもある。
明治時代に神仏分離令が出されるまでは、このお寺は那智大社と同一の
もので、如意輪観音堂と呼ばれていた。熊野は廃仏毀釈などの影響で、
修験禁止令が出されるまで、神道、仏教と同様に修験道が大変盛んな場
だったという。

私が修験の人々と最初に出会ったのは7年前、天河でのことだ。
よく意味もわからず、天河の奥の院がある弥山(みせん)に登拝した際
山伏の人々も一緒で「ザンゲ、ザンゲ ロッコンショウジョウ(六根清
浄)」と耳慣れない言葉の合唱で頂上まで登った。
その後、聖護院の修験の方や、吉野、金峯山の修験の方などの問答や護
摩などには、幾度も立ち合わせて頂く機会があり、行者の方々が、大自
然と対峙しながら「行」を積まれているということを知るようになった。

熊野の映像を撮るにあたって、熊野修験のことも触れたほうがいいだろ
うと漠然と思っていた。
しかし、何処のどなたに、お話を伺えばいいのか迷っていた時に、写真
家のクスモトさんから紹介して頂いたのが、青岸渡寺の副住職である高
木亮英さんだった。

この日は、早めに夕食を済ませ、部屋で寛いでいると、部屋の外から声
がかかった。
緊張しながら襖を開けると、お務めを終えた亮英さんが、ゆったりとし
た笑顔で立っておられる。

「熊野修験のお話ですよね。この部屋に入ってよければ、ここでお話し
しましょう」と言ってテーブル向かいに座られ、およそ二時間ほど丁寧
にお話してくださった。
亮英さんの話によると、十数年間まで、熊野修験はほとんど途絶えてい
たそうだ。
しかし、これではいけないと、亮英さんが中心となり、熊野修験を復活
させはじめたという。
きっかけは、先代のご住職だったお父様が亡くなられたことからだそう
だ。遺品を整理していた際、箪笥の奥に、シツケが付いたままの修験道
の衣装が出てきたのだという。
先代のご住職だったお父様は、熊野修験を復活させなければ…という思
いはありつつも、一度も修験として「行」をすることが出来なかったそ
うだ。

明治の神仏分離や廃仏毀釈で、大打撃を受けた青岸渡寺そのものの復興
は、お父様をはじめ、現在のご住職なども行われたそうだが、亮英さん
は、熊野の精神を復興させようと、熊野修験としての活動を行い始めた
のだ。

私は、お話を伺いながら熊野権現が喜んでいることを肌で感じていた。

話が終盤になった頃「毎年1月に、那智四十八滝での滝行をするのです
が、天川さんよろしければ同行撮影しますか?まだ日程は決めていない
のですが…」とありがたいお声をかけてくださったのだ。

年末も近づいた頃、滝行が1月6日に決まったと知らせを受けた。
なんということだろう。1月7日は、本宮大社でのヤタガラス神事撮影
にも声をかけていただいていたのだ。
もう、疑いの余地無く、年始早々の撮影が決まった。

慌しい正月を終えて、私とケンちゃんとキョウちゃんは、またまた熊野
へと向った。
                      つづく…