『神戸からの祈り (9)』

5月中旬、東京実行委員会の人々が中心となり早稲田大學で『ガイアシンフォ
ニー』1〜3番までの連続上映会が催された。その日の打ち上げ会場で、ひと
際声が大きくて大柄なおじさんを紹介された。「大重です」そう言って差し出
された手はとても暖かい。メガネの奥でキューピー人形のような大きな目がニ
コニコと笑っていた。「僕もね、神戸だから一緒にイベント手伝うよ」それが
大重監督と私の最初の出会いだった。

5月21日、22日と連続して神戸実行委員会が行われた。約束どおり、大重
監督も来ていた。この2日間は、私にとって忘れられない日となった。

5月21日は、かなりの人数が集まってのスタッフミーティングだった。
ミーティングの最大の争点は、募金集めについてだった。神戸メリケンパーク
で8月8日の催す「満月祭」は、その規模からいっても莫大な費用がかかるこ
とは、容易にわかる。費用をどう捻出するかを話し合っているうちに、何の為
にこの催しをするのか、その原点を皆で共有していないことに気がついた。

根本がずれていては、祈りのイベントなど出来るはずもない。
私は、幾度か原点を皆でもう一度話し合おうと提案したが、皆一応に興奮した
状態で、どうやってお金を集めるかを話し合うことの方が先決だと却下され、
誰も私の声など聞き入れてくれなかった。私は孤独感を味わっていた。
結局、その日遅くまで話し合ったが結論が出ないままとなってしまった。
そして翌日、参加できる人たちだけで、午前中六甲山や半焼した銀杏の木(連
載(8)参照)にお参りしたりしながら、震災後の神戸を歩いた。

その日の午後、今度は出演者との最初のミーティングが行われた。
そこに集まった何人かのかの出演者達は、どういうわけか全員が男性だった。
ある団体で事務局長をしている男性と私の二人でスタッフ側として、進行等の
話し合いに臨んだがのだが、どうやらディレクター的な役割を女がすることに
、違和感を覚える人がいた。「君は女なんだから、指示なんか出さなくていい
んだよ。進行は男がするもので、女は出された指示に沿って仕事をするものな
んだから」と言う。
私は幸いにしてというべきなのか、男女差別の類は今まで一度も受けずに生き
てきた。だから、この日驚くべき男尊女卑的な考えにただただ、びっくりした。
更に、そこに居合わせた男性全員がその人の意見に賛成してしまった。
その場で「君は口出さなくていいから」と釘をさされて、私は以後、進行には
一切何も言えない立場になってしまった。

私はひどく悔しいと思った。そして前日から様々なことが重なって、かなりナ
ーバスになっていた私は、早々に家路に向かい、近所の八幡神社の中で泣いた。
泣きつかれて涙も枯れた頃、このイベントには関わるのを辞めようと思ってい、
家に戻ろうとした時だった。今まで木の陰で全く見えていなかった神社の奥に
続く細い道が、私を呼ぶように風に吹かれて現れた。私はその道をゆっくり歩
いてみた。そして角を曲がった瞬間だった。道開きの神様、サルタヒコの祠が
目に飛び込んできた。今まで全く知らなかったのだが、なぜか家の真向かいに
小さいながらも、サルタヒコが祀られていたのだ。
私は、このイベントはサルタヒコのエネルギーが導いているように感じていた
ので、あまりのことに暫し呆然としてしまった。私はこのイベントの渦の中に
いることをはっきりと自覚した。そして事務局長としての仕事をやり遂げるこ
とを、サルタヒコの神様に誓った。

家に帰ると、私宛に長いFAXが届いていた。
送り主は、原さんという人物で、前日のスタッフ会議に出席していた一人だっ
た。長い文面には、前日の会議で私が一人で主張していたことに全く賛成する
という内容のものが書かれており、会議の折には、あまりにも人数が多くてそ
の旨を発言すらできなかったことが詫びてあった。
「何の為にするのか」を全員が共有できたら必ず道は開けるので、諦めずに共
に頑張ろうと書かれていたのを読んだ時、私は初めて同志と出会えたような喜
びを感じた。

そして、原さんは普段編集の仕事をしている関係から、募金集めの方法として
、祈りの文集をつくることを提案してくれた。これは、一口500円以上の募
金の際にメッセージを寄せてもらい、それを文集として発行しようというもの
だった。
この原さんの提案は次の実行委員会で全員一致の賛成を得て、早速それは動き
出した。

5月も終わりに近づいた頃『神戸からの祈り』は、実行委員会代表に鎌田東二
さん、神戸実行委員長に大重潤一郎監督、東京実行委員長に早稲田大学の池田
雅之教授が決まった。そして、その頃には賛同者も鎌田氏の声がけで芸能人か
ら政治家まで著名な人々が多く名を連ねている。
6月1日には、神戸市役所で記者会見をする運びになった頃、私の家では大パ
ニックが起っていた。とにかく事務局を自宅に置くことに猛反対されていたの
だ。考えてみれば当然のことだった。

そして悩んだ末、家の近所の不動産屋に飛び込み、急遽小さな事務所を借りる
契約をした。5月27日のことだった。
そこは、洋館の2階の小さな部屋。出窓が3つある可愛らしい場所だった。

私は、このここを『オフィスTEN』と名付けた。
 
                             つづく…