『神戸からの祈り (7)』

その年、私は神戸・東京間を幾度往復したか覚えていない。

神戸も東京も、それぞれ実に様々な人や団体が関わっていた。その多くは、以
前から何かしらの知り合い同士だったようで、それまで、ほとんど誰とも繋が
っていない私は、異質な存在だったのかもしれない。だから、私がどこの何者
で、どんなことをしている奴なのか、知っている人は皆無だった。
私はそれまでもイベントのプロデュースを数多くこなしてきたので、当然、構
成や演出の部分でイベントに関わるのだろうと一人で勝手に思っていたのだが
現実は違っていた。

ある日、呼びかけ人である鎌田東二さんと東京の事務局長が決まった池田季美
子さんから、私に神戸の事務局長にならないか?という打診があった。理由は
至って簡単だ。引き受け手が見つからないからだ。更に、私は震災の経験があ
り、仕事を辞めて暇があるという好都合な状態だった。私は自慢ではないが、
事務が大の苦手である。その能力に欠けていることを自覚しているから、普段
から事務作業を完璧にこなせる人を限りなく尊敬している。そんな私が事務局
長など、あまりにも不向きだとは思ったが、引き受け手がいないならば、仕方
がない。その役を謹んで引き受けることにした。

正直なところ、それがそんなに大変なことであるとは、あまりに無知であるが
故に、想像もしていなかった。

そして、何はともあれそのような役についたのならば東京のミーティングにも
出来るだけ参加しよう、と単純な私は思った。

4月の初旬、東京の実行委員会の集まりに初めて参加した日、私はある人から
冊子を渡された。夜、ホテルのベッドで横になりながら、その冊子を読んでい
た時、あるページで目が釘付けになる。

石の写真を撮り続けている須田郡司というカメラマンの紹介文だった。私はそ
の時、直感的に「神戸からの祈り」のポスターをこのカメラマンに撮ってもら
ってはどうかと思った。翌日、鎌田東二さんにランチをご馳走してもらいなが
ら、その冊子を見せ「凄いカメラマンを見つけましたよ!」と意気揚揚話した。
すると鎌田さんは「あれ?郡ちゃんなら、昨日のミーティングに参加していた
から会ったはずよ」と言う。実のところ、前日は、あまりにも多くの人と挨拶
をしたので、失礼ながら会ったことすら覚えていなかったのだ。

後から知ったことだが、須田郡司さんは、鎌田さんと数多く聖地を巡礼し、鎌
田さんの書籍にも数多くその写真が使われているのだ。その時、またしても目
に見えない繋がりに驚いた。そして、5月の中旬神戸の町を一緒にあるくこと
を約束した。

神戸の実行委員会では、イベントの意義などを話し合ったり、予算組みの話で
頻繁に会議が行われるようになった。その話し合いの中で、最も大切な要点は
、宗教・人種・民族を超えての真の祈りの祭りあるということだった。そこか
ら、呼びかけ人の喜納昌吉氏が琉球民族ならば、アイヌの人も在日韓国人の人
も、皆参加してもらえるような祭りにしようということになった。

実行委員会の合間を縫うように、4月の中旬、私は2週間の予定で家族と屋久
島へ行った。

数年前から、縄文杉に呼ばれているような気がして、屋久島には行きたくて仕
方が無かったのだ。
ある日、我が家にとても魅力的な内容のツアーの知らせが届いた。それは、私
のツボに見事にはまる内容だった。世界中の先住民族が何族も一同に会し、共
に屋久島で一緒に過ごすというふれこみだったのだ。
屋久島までの交通費は別、参加費だけでも家族分払うと50万円近くの金額が
かかったので、合計100万近いお金が必要だったが、父の遺産がほんの少し
入ったところたったので、思い切ってそれを使うことにした。

ところが、参加してみると、多くの先住民族が来れなくなったと言う。その場
に集まっていた人々は、タイのカレン族の数人と、アイヌの人々が少数、後は
私たちと同じような一般参加者ばかりだった。更に彼らとは寝食は別で、一般
参加者は乾いた田んぼの中でテントを張り、更に食事費を徴収された上、自分
たちで朝昼晩、煮炊きをするという、何とも疑問の残るツアー?だった。

屋久島に着いて3日後、スーパー集中豪雨が私たちを襲った。
その雨は屋久島の人たちも経験したことが無いほどと後で言うほど、凄いもの
だった。ほんの数メートル移動するのも、頭に雨が突き刺さりそうで難しい。
やっとのことで、全員どうにか近くに作ってあったバンブーハウスに避難して
一夜を明かした。翌日は、前日の雨がウソの様に晴れ上がった。

私たちのテントは豪雨の力で骨が折れてしまっていた。更に2週間分の荷物も
全て田んぼのぬかるみの中に埋まった状態になっていた。
その日、参加者たちで協力し合いながら、泥に埋まった荷物を1日中救出しな
がら、私はなんとなく阪神大震災を思い出していた。

結局その日主催者は朝から登山に出かけたまま、夜まで戻らなかった。

主催者の無責任さにあきれるばかりで、どうすることもできないまま時間だけ
が過ぎていた。私たち家族は、寝るテントも失い、荷物も全てびしょ濡れとな
り、子供が寒いと言い始めたので、急遽レンタカーを借り、とりあえずコイン
ランドリーを探しに走り、温泉に入り、そしてそのまま青少年村のコテージを
借りることにした。

それから数日後、私は念願の縄文杉まで登った。そしてその時間は、きっと生
涯忘れることがないであろう祈りと瞑想の時間となったのだが、この時のこと
は、また何か別の機会に書こうと思う。

縄文杉から戻った翌日、私たちは久しぶりにあの田んぼのキャンプ場へ向かっ
た。実は、その日温泉に向かう途中、偶然例のキャンプで仲良しになったアイ
ヌのケメと会い「今晩、凄い人がやって来るから、とにかく来い」と言う。
さすがに、ぬかるんだ田んぼでのキャンプは中止となっていたようで、スタッ
フ用の家の中に大勢の人たちが座り、カレーを頬張っていた。私は、その集団
から飛び出してしまった後ろめたさもあり、路上に座って星空を眺めながらカ
レーを食べていた。
目の前に1台のタクシーが静かに止まった。何人かと一緒に、ひときわ目を引
く大きなおばさんが降りてきたので、私は思わずカレーを食べる手を止めてそ
のおばさんを見上げた。すると、私の瞳をじっと見て開口一番言った。

「あんたも、縄文杉から呼ばれて来たね」

それが、アイヌのシャーマン、アシリ・レラさんとの最初の出会いだった。

レラさんから「祈り」というものを徹底的に教えられたのは、それからずっと
後になってからのことだった。

                              つづく…