『神戸からの祈り (5)』

平日にドライブしたのは、本当に数年ぶりだった。

 車が吉野の山にさしかかった頃、にわかに天気が崩れてきた。午前中の晴天
がまるで嘘のように、どんどん空は鉛色に染まってゆく。神戸を出てから5時
間くらい車に乗っていただろうか。車中、様々な話をしていきながら、私はひ
とつの意志を固めていた。
「あの会社は、もう辞めよう」
 矛盾を感じながらも、経済が保障されている理由で仕事を続けることは、今
生一度しかない人生の無駄遣いのように感じたのだ。

 当時、私はラジオドラマなどの脚本を副業で書いていた。自分の想いをきち
んと表現できる生き方を選ぼう、そう決めた時ずっと運転をしてくれていた男
性が、突然聞いてきた。
 「ペンネームはあるのですか?」
 不意の質問ではあったが、以前、局のプロデューサーに「ペンネームある方
が便利ですよ」という言葉を思い出した。
 「そうね、ちょうどタイミングいいから、今つけてしまおうか。天川村の天河
神社という所に向かっている途中だから、天川(てんかわ)というのをそのま
まペンネームにつけちゃおう。アマノガワでテンカワっていうのも綺麗だし」
と、それはいとも簡単で、安易な発想だった。

 黒滝から、更に山道を上がり天川村にさしかかる所で、なんとも不思議な雪
が静かに舞い降りてきた。その雪は生まれてからこの方、一度も見たことがな
いほど大きく、ボタン雪というよりは、まるで白い鳥の羽のようだ。フワリ…
フワリ…。時間は午後3時を少しまわった頃だっただろうか。不思議な空間へ
とタイムスリップしてゆくように、その雪に導かれながら天河神社へ私達は辿
り着いた。

 鳥居をくぐると、左手にある龍神の手水から静かに清水が流れている。誰一
人参拝している人も見当たらず、あたり一面は真綿を薄く引いたようにふんわ
り雪をかぶっている。凍るような水で、手と口を清めてから階段をゆっくり上
ると、目の前に、大きな桧舞台が現れた。
 それがあまりにも素晴らしかったので、私はそこに手を合わせて拝んだ。当
時の私は、神社仏閣にさして興味がなかったから、と言えば聞こえはいいのだ
が要は全くその類の常識を持ち合わせていなかったのだ。だから、桧舞台を神
殿と勘違いして拝むという、なんともマヌケなことをしてしまった。余談では
あるが、マヌケとは魔抜けでもあるそうだから、まさに、そのような状態だっ
たのかもしれない。

 一生懸命、桧舞台に向かって拝む私の姿がよほど可笑しかったのだろう。誘
ってくれた千賀子さんが「彩さん、神様にお尻向けて、何やってるの?」と言
いながら、クルっと神殿へ私の向きを変えてくれた。

 まさにその時だった。

 「よく来た。待っていたぞ!」

 天地に響き渡るほどの大きな声で若い男性の声が私に話し掛けてきた。
 私は、何事が起ったのか、皆目わからなかったのだが、あまりのことに、腰
を抜かしてしまったのだ。と、同時に口もきけなくなってしまった。その姿は
まるで日本昔話に出てくる、お爺さんやお婆さんのようだったのではないかと
思う。しかし、どうやらその声は、他の人には聞こえていなかったらしい。
 腰を抜かしてしまった私の異変に気がついてくれた何人かに肩を抱えられて
ようやく宮司さんがいらっしゃる部屋へ向かった。

 その部屋では、今度はあたり一面の空気が渦巻きとなって、何ヶ所もグルグ
ルと回転している。私は全く理解不能となり、座っていることすら困難になっ
てしまった。ややしばらくして、にこやかに柿坂宮司さんがやって来られた。
皆は一斉に立ち上がり挨拶をしているのだが、私は立ち上がることすらできか
ったが、かろうじて座りながら挨拶をしたように思う。

 何をその時に話していたのか、ほとんど記憶にない。ただ覚えているのは石
油ストーブの匂いと冷んやりとした床、とりとめも無く自分のことを語ってい
る私。数時間経ってからだったと思う。

 「テンカワアヤというペンネームにしたいのですが、よろしいですか?」

 そう言った途端、はっと我に帰った。何をバカなことを言ってしまっている
のだろう…。軽いノリで天河のことなど全く知らずにつけてみたペンネームだ。
マズイと後悔してはみたが、自分の口からもう出てしまった後だった。

 しかし、驚いたことに宮司さんは満面の笑顔で意外な返答をしてくれたのだ。
「どうぞ、お使いなさい。あなたはテンカワと名乗っていく人ですから」
その言葉は、私の想像を絶するものだった。そして、白い紙に大きく「天」と
書いてから、この天の字を書き間違えないように、と念を押された。

「天の文字の上棒はまさに天上。そして下棒は地を表し、その間に人がいる。
あなたはこれから幾度も天川と書くことになるでしょうが、絶対に間違えては
いけないですよ。天の文字は上が長く下が短いのです。天より地の方が大きい
ということは、あり得ないことなのです」

 この瞬間から、私は天川 彩となった。

 正式参拝の為、再び拝殿に上がると、音もなくまた、あの鳥の羽のような大き
な大きなボタン雪が舞ってきた。 
 宮司さんが音魂を響かせながら、祝詞をあげてくださっている。その声を聞き
ながら、私は涙が止まらなかった。そして、もう一度あの姿見えぬ声の主が再
び私に語りかけてきた。

 「浄化された魂、いつまでも。」

 この日、この時、私は天に誓った。私は天川 彩となり、役割を果すことを。

                               つづく…