『神戸からの祈り (2)』

震災から、わずか3ヵ月も経たないうちに、オウムの事件が起こった。
人々は「愛」や「祈り」という言葉に、疑いと恐怖を覚えるようになった。
洗脳されまいと、心に鍵をかけた。

私も知らず知らず、心の壁を再建し、更に鍵までかけ始めていた。
精神的な話や、魂の話は「怪しい」と警戒し、宗教団体に所属している友人
には、とり込まれないように注意しながら話していた。

98年3月3日、私はカルチャーショックを受けることになる。

よく意味もわからず、ただ誘われるまま参加した集まりに、30名を越す
人々が全国から集まっていた。
音楽家、陶芸家、カメラマン、会社経営者、大学教授、気功家、主婦、
ラリーマン、学生…。
どう考えても接点などありそうもない人々が、膝を就き合わせて真剣に話し
合っている。平和な世の中になる為にはどうしたらよいのか、阪神大震災の
鎮魂とは、そしてその為に私達はどんなイベントをするべきなのか。
それに集った人々は、何の組織に属するでもなく、宗教団体でも、思想家集
団でもない、普通の市民たちだ。
「平和」というキーワードをもとに熱く語り合う現実に、私は軽い目眩と興
奮を覚えていた。

そして、その日の夜、改めて数日前にあったことを思い返していた。

当時、私は某新聞社系地域情報紙を発行している会社に勤めていた。
最初の数年は、営業や記者の仕事をしていたのだが、いつしか私自身が一番
得意とする企画の部署でチーフを任される立場になっていた。
社内で読者向けに企画するイベントは、いつも満員御礼。
その会社に勤める前から、ずっと企画の仕事で生きてきた私にとって、媒体
で読者向けイベントを企画することは、さして難しくはなかった。
しかし、その会社で予想外に苦しんだ仕事が、龍村 仁監督の映画『地球交
響曲・第三番』の上映会だった。

97年秋『地球交響曲第三番』を初めて観た時、魂が震えた。
私は、すぐさま社内で上映会の企画をたてて、準備を始めたのだが、数日後
父が急死。
腰痛で整形外科に入院していたのだが、院内感染で様態が急変。突然、危篤
の知らせを聞いてすぐさま飛行機に乗ったが、着いた時には息を引き取って
いたのだ。父の死に顔は、とても穏やかで笑っている。

今でもどうしてなのかわからないのだが、父の死の前後、友人知人、親戚合
せて、なんと5人もの人々が1ヶ月のうちに亡くなった。
脳梗塞、癌、脳溢血…そして自殺。

「いのち」とは何なのだろう…。
「死を迎える」とは何なのだろう…。
「生かされている」とはどういうことなのだろう…。
私はこの時期「生」と「死」をずっと考えさせられていた。
映画『地球交響曲』の第三番はまさに、そこがテーマとなっている。
「どうしてもこの上映会をしなければ…」その思いが私をかりたてていた。

ところが、上映会の準備にとりかかろうとしたら、会社の同僚たちがどうい
う訳か一様にこの映画を拒絶したのだ。
「説教くさくて嫌だ」「宗教がかっているようだ」「友人に変な人と誤解を
招きそうだ」など理由は様々であったが、上映会を協力してくれそうな同僚
が見つかるどころか、会社の中で徐々に私は孤独になっていった。そして、
上映会が近づくほど同僚たちの態度ははっきりとしたものになっていた。
だか上映会の準備を地道にしていると、会社の外で新たな出会いが次々と起
ってきた。
そしてそれらの人々の協力を得て、チケットは見事に完売した。

上映前日、一人事務所に残り準備をしていると、一本の電話が鳴った。
運命を変える電話であるとは、その時知る由もなかった。

つづく…