『神戸からの祈り (18)』

1998年8月8日。
神戸からの祈り「満月祭コンサート」当日。

淡路島での祈りの時を終えた私たちは、祭りの会場である神戸メリケンパーク
に移動。

この日、当日飛び入り参加のスタッフも急激に増えて、最終的なスタッフの数
は300人を越えていた。私は、トイレの設置場所や、救護班の場所を説明し
たり、当日の流れやスタッフの役割分担を、拡声器を使って説明した。用意し
てもらっていたスタッフTシャツも当日飛び入り参加の人数があまりに多く、
急遽追加作成してもらったりもしながら、刻々と迫っる本番に向けて準備を進
めていた。

仮設で設けられた舞台上でのマイクテストが始まり、私は舞台監督をしていた
人に、舞台台本を一部本部に置いてもらえるよう話した。

しかし、その舞台監督は苛立っていたのか「あんたら素人が見たってわからな
いんだから、本部になんか台本必要無いんだよ!!そっちは客の対応だけして
おけばいいんだから」と言う。

この日、私を襲った悲劇は、この瞬間から始まったと言っても過言ではない。

正直なところ、以前にも書いたが、私はこのイベントでは舞台関係の仕事を「
女性だから分からないだろう」という理由で一切触らせてもらえなかった。
だから、出演者の方との打ち合わせやケア、舞台関係者の方との打ち合わせも
男性のスタッフが仕切っていたので、ほとんどわからない状態だったのだ。
結局仕切ることが不可能になったスタッフは舞台監督をどこかの業者の人に任
せたらしく、その日初めてその舞台監督と私は会った。
(もちろん、その舞台監督はそれまでのミーティングにも参加していないし、
祈りの時間も共有していない)

そして、舞台を正面に見ることも出来ない本部席の位置を直すことも出来ず、
進行状況が理解できないまま、本番を迎えることになってしまった。

長年、イベント関係の仕事をしていた私にとって、進行状況が理解できないま
まお客さまが来るというのは、大変な不安材料なのだ。
またお祭会場では、開始時間を間違えて早くフリーマーケット広場に来てしま
ったお客さまが、イライラし始めて文句を本部宛に言ってきた。

あまりに大規模で行われたイベントだったので、それぞれの担当スタッフがど
う頑張っていても、細かな問題が続出しはじめていた。
私は、とにかく走り回って、トラブルの処理を行っているうちに、満月祭は始
まっていた。

祭りのオープニングを飾る虎舞いや中国の獅子舞も、紆余曲折しながら韓国舞
踊を踊ることになった親友の晴れ舞台も、結局見ることは出来なかった。
あれだけ、様々な繋がりからやっとの思いで出演してもらうことができたアシ
リ・レラさんとアイヌの子供たちの歌や踊りも見ることが出来なかった。
些細なところで、細かなトラブルが続く。
その度、謝りに走りまわる。それが私の仕事のようだった。

夕方になり、突然著名人が舞台に登場したのだが、その方々が来ることも、本
部席には全く知らされていない。だから情けない話だが、本部に質問が寄せら
れても対応することすら出来なかった。

一段落した頃、打ち上げ準備を始めた。
何せ当日参加したスタッフや出演者を含めると想像を絶する人数がいる。私は
途方に暮れながらも、何人かのスタッフに協力してもらいながら、とにかく準
備を急いだ。

「それにしても何なのだろう…。私は、ここで何をしているのだろう…」
長い時間をかけて、作り上げてきた祈りの祭り。それが目の前で全くエネルギ
ーの違うものに変化していることに、私はやるせなさを感じて、空を見上げた。
満月祭なのに、肝心の月は厚い雲に覆われて姿が見えない。
その時の私は、まだ「なるがまま、あるがまま」という思いには到れず、悲し
くなってきてしまった。

舞台がラストに近づき、ようやく舞台をゆっくり見ることが出来た頃、呼びか
け人の一人であった喜納昌吉さんがエイサーと共に演奏。
すると会場を埋め尽くしていた人々が、一斉に踊り出した。
他の出演者も仮設ステージで歌い踊っている。
ほんの一瞬だが、うっすらと満月も雲の合間に顔を出してくれた。

そこで見たものは、集まってきた人々の幸せそうな顔、顔、顔。
(その人々の姿は、翌日の神戸新聞と読売新聞の朝刊1面を飾った。)

これで、いいんだ。みんなが喜んでいるからいいんだ。
私はそれで自分を納得させようと思った。
「神戸からの祈り・満月祭コンサート」は大盛り上がりの末、終わった。

しかし、本当の私の悲劇はこの直後起った。


つづく…