『神戸からの祈り (11)』

私は子供の頃から祭り好きだった。
しかし、祭りの意味などについて、考えたこともなかった。

このイベントに関わるようになって、祭りとは何かと自問自答し始めるように
なった。
そして当たり前のことなのだろうが、祭りとは古来から目に見えないところに
何かの祈りを捧げる為、祀り奉りて、歌い踊り魂を共に震わせるものなのでは
ないかということに気づいた。

五穀豊穣、商売繁盛…人が生きていく上で、とても大切なものを神仏に謙虚な
気持ちで祈る時、祭りとなって多くの人の心が一つになる。
「祈り」の気持ちこそが「祭り」の原点なのではないだろうか。

私はこのイベントを伝える段になって、多くの人が「祈り」や「愛」「平和」
などという言葉に過敏に反応し、恐怖心すら抱いていることを知った。
それは、オウムのサリン事件以来、間違った方向性すら気づかずに、教祖を中
心として盲目的に他を排除してカルト崇拝していくことと、謙虚な気持ちで神
仏に信仰心を寄せるものとを、多くの人が混同してしまっているからなのだろ
うか。私に置き換えても、かつてはそうだった。どこかで心の目が開かない限
り、受け入れてしまうことが怖く、頑なに拒否反応が出てしまっていたように
思う。

素直に、世の平和を祈る。
それは、誰の為でもなく、全ての為に。
この単で純なことに、多くの人が恐怖心を覚える。

この頃、マインドコントロールという言葉がしきりと使われ、洗脳という表現
もマスコミが毎日のように使っていた。マインドをコントロールされないよう
洗脳されないようにと呪文をかけられ、人々の信仰心を奪い、祈る心を封印さ
せようとする、何か相反する力が働いているように思うのは、私だけなのだろ
うか。

「世界平和と鎮魂の祭り」これこそが「神戸からの祈り」のテーマだった。
6月の終わり近くになって、私はチラシやポスターのコピー文を書いた。この
時、ようやくこのイベントで唯一私ができる表現の出口を見つけ、自らを呪縛
する思いを断ち切ることができたのかもしれない。書き上げた後は、日々忙し
さを増す事務局の業務をこなすことに専念した。

7月に入り、具体的なイベント準備はかなり進んだ。
しかし、8月8日夜明けと同時に行う予定の、震源地での祈りの場が、後1ヶ
月を切った時点でもまだ決まっていなかった。実行委員代表の鎌田東二さんを
はじめ、関係者の人々のもとにも様々な情報が集まってきたのだが、結局ここ
といった場所が見つからないまま、日にちだけが過ぎていく。7月も中旬に入
り、タイムリミットがいよいよ近づいてきた時、私達関係者は「震源地の祈り
の場」を探す為、淡路島へ行くことにした。
そして、それは天河神社・奥の院がある弥山(ミセン)を登拝をした後にしよ
うということになった。

天河神社奥の院は、役ノ行者が1300年前に大峰山系を開いていった折に、
弁天様をご勧業され、奥の院に鎮座させた弥山山頂にある。
その頃、私は奥の院も弥山も役ノ行者も何もかもよくわからなかったが、とに
かく何かが強く繋がっているという感覚だけは確かだった。

弥山は、降雨量日本一の大台ケ原のすぐ近くにある。だからなのかはわからな
いが、地形的に雨が降りやすい場所なのだろう。実にこのあたりは、よく雨が
降る。例外にもれず、この日も雨の登山となった。

先頭は神社の宮司さんと禰宜さん、最後尾には強力(ごうりき)さんがついて
全員無事に登れるように配慮してくれる。私の前を登っていたのは、高野山の
お坊さんだった。小さな声でお経をあげている。
皆、まるで禊をしているかのようにずぶ濡れになりながら、山小屋に着いた頃
には、すっかり体も冷え切っていたが、達成感と清清しさで、どの人も喜びに
満ちた顔をしている。
山頂の奥の院は、雨に煙る幻想的な雰囲気の中にあった。
近寄りがたい神々しさも感じるのだが、御鎮座されている弁天様のお顔は、小
さくてなんとも愛らしく、心を和ませてくれた。
私たちは、山小屋で一夜を明かしたのだが、神社の人々は夜明けまで御神事を
していたようだ。

翌朝は、すっかり雨もあがり空気が澄んでいた。
天然記念物のオオヤマレンゲが可憐な花を咲かせている姿も目にしながら、ゆ
っくり山を降りてくると、宵宮の準備が始まっていた。

そして、その翌日、私達は天河から淡路島に向かう為、電車に飛び乗った。


                             つづく…