『神戸からの祈り (10)』

事務局の場所として『オフィスTEN』を家の近くに構えてから生活は一変した。

記者会見が終わり、事務局はオフィシャルなスペースとなると、日々増える問
い合わせの電話応対や、協力団体への依頼、後援、協賛の依頼など、体がいく
つあっても足りないような状態だった。朝から晩までほとんど事務所で過ごし
ていたと言っても過言ではない。私は苦手な事務に追われる日々を送っていた。

イベントまで残り2ヶ月となったある日、神戸実行委員長の大重監督と新聞社
へ行った帰り、一杯飲むことになった。考えると、出会ってからあっという間
に一緒に動き回り、ゆっくり話したこともなかったのだ。

新聞各社同時後援という快挙を成し遂げた私たちは、晴れ晴れとした気持ちに
なり、少し精神的に余裕が出てきたのかもしれない。縄暖簾が私たちを呼んで
いるように感じて、まだ外は明るかったのだが、居酒屋に立ち寄ることにした
のだ。ほどよくお酒がまわったころ、大重監督が「君は天川 彩なんだよ」と
しきりに幾度も言い始める。私は、監督は酔っ払って、意味不明の言動を発し
ているのだと笑っていたが、よく聞いてみると真意は違った。

「君はね天から全てを見守って、その大きな流れを彩っていく役割なんだよ。
だからさ、このイベントも、大きな本流から物事を見る為に、事務局になっ
たんだよ。嫌かもしれないけれど、今回はその役割に徹して頑張ってくれよ」
と言う。事務局は面白くないなぁという思いと、持ち上げられた照れも手伝
って、その時は曖昧な返事しかしなかったと思うが、実は今でもその言葉が心
に深く残っている。

この頃にはスタッフ同士の縁が繋がり『神戸からの祈り』に関わる人の数は加
速して膨れ上がっていた。そして、その一人ひとりが、この平和イベントに並
々ならぬ想いを抱き、関わっていたように思う。

サッチャンもそんな中の一人だ。


彼女の職業は、看護婦さん。私の次女と彼女の長女が同じ幼稚園に入園という
縁で出会い、数年間は普通の仲の良いお母さん友達だった。しかし、彼女も震
災を経験。気がついたら、互いに大切なことを話し合える友になっており、こ
のイベントも手伝ってくれることになった。当初、サッチャンは、現役看護婦
という職業を生かして救護班を取りまとめる役だった。しかしイベント当日、
彼女は救護班の他に、韓国舞踊の踊り手としても出演したのだ。

『神戸からの祈り』は、宗教、民族、国境を超えて、鎮魂と平和の祈りの祭り
だ。神戸メリケンパークでの満月祭コンサートには、沖縄の喜納さんやアイヌ
のレラさんをはじめ、中国獅子舞やインド舞踊など次々と出演者が決まってい
く。しかし、在日韓国人の団体は、なかなか決まらなかった。

神戸には数多くの在日韓国人が住んでいる。この催しの趣旨を考えると、在日
韓国人の団体は必要不可欠だったので、私は在日2世のサッチャンに相談して
みた。彼女は快く幾つかの団体にあたってくれたのだが、チャンゴ(韓国太鼓)
のグループは、夏祭りなどと重なっていて、どの団体も都合がつかなかった。
そこで、彼女は韓国舞踊の団体を紹介してもらい出演を依頼。すると代表の人
から「あなたが一緒に踊るのなら、出演しましょう」ということになったのだ。
彼女はもともとバレエダンサーだったので、自らの中に流れる民族の踊りとい
うことで祈りを表すことは、必然だったのかもしれない。

気がつくと、かなり多くのスタッフがそれぞれの自己表現する場を持って、こ
のイベントに関わっていた。正直なところ、私はそんな人々を羨ましいと思っ
た。当たり前だが、ミュージシャンは音楽を奏で歌い、舞踏家は踊る。イラス
トレーターはTシャツのデザインをして、陶芸家や写真家の人はアート展やチ
ャリティ会を催すことにした。編集者は小冊子をつくり、野外活動を得意とす
る人は、フリーマーケットや屋台を仕切ることになった。学者はシンポジウム
のパネリストとなり、気功家は気功教室を行い、舞台製作者は進行台本を書く
。数え上げればキリがないほどだ。スタッフとして関わりながら、その人自身
の、確固たる自分表現方法を皆見つけ出していたのだ。

私は、どうして一番苦手とすることで、この平和イベントに関わることになっ
たのだろう…。
幾度も幾度もこの疑問が私の中を駆け巡る。

この時点での私は、あるがままに流れを受け入れるということが、まだ出来な
くて、もがき苦しむばかりだった。
                             つづく…