『神戸からの祈り (1)』

深い地鳴りの音で目が覚めた。
1995年1月17日午前5時46分、突き飛ばされるような衝撃が突然襲
った。

この日、当時4歳だった末っ子の息子が、午前5時頃子供部屋から私が寝て
いる和室にやってきた。一度寝てしまうと、朝まで起きない息子が「気持ち
悪くて寝られない」と言う。今考えると、年齢が幼かったぶん、動物的直感
が冴えていたのだろう。変動を体で感じて、不安だったのかもしれない。
息子は私の腕の中に包まれると、すぐにスヤスヤと眠り始めた。しかし、起
こされてしまった私は、逆になかなか寝付けなく、やっと再び眠りに入った
途端のことだった。

激しい揺れの中、どうにか態勢を整え、四つんばいになって、私は息子を自
分の体の下に置いた。部屋中にガラスや物が散乱する音が響く。幸いにして
寝室は、ローボードしか置いていなかった為、背中の上には、襖が落ちてき
たくらいだった。「子供部屋で寝ている娘達は、大丈夫だろうか」不安に胸
が押しつぶされそうになりながら、揺れが収まるのを待つしかなかった。
やっと、あの激しい揺れが止まった時、ほんの一瞬だが、世の中が無音にな
ったのではないかと思うほど静まり返った。

全てが終わり、全てが始まると思った。

私はガラスが散乱している床の上に、とりあえず足場となるよう毛布を敷い
て、子供部屋に向かった。途中、廊下の一部が水浸しになっている。トイレ
タンクの水が、激しい揺れで全て溢れ出てしまったのだ。「こんな状態で、
娘達は無事なのだろうか」。
子供部屋の戸は荷物がよりかかっていた為、なかなか開かなかった。どうに
か扉をこじ開けて目にしたのは、箪笥と机に挟まれて、身動きとれなくなっ
ている2人の娘達の姿だった。寸分の差で直撃を免れていた。しかし、息子
がこの部屋でいつもの場所に寝ていたらと思った瞬間、私は背筋が寒くなる
った。

真っ暗な部屋の中、手探り状態でとりあえず着替えて、下駄箱から玄関に散
乱していた靴を履き、コートがわりに毛布をかぶってマンションの一階まで
降りると、多くの住民が不安そうに集まっていた。オートロックの自動ドア
を誰かがこじ開けると、外から強烈なガス臭が漂ってくる。中にいるのも、
外に出るのも怖くて、私達はその場で夜が明けるのを待った。
外から戻って来た誰かが「至る所で、火事が起こり、多くのマンションや家
がつぶれているぞ」と叫んでいる。鉛色の空が薄くなってきた頃、私は恐る
恐る外に出てみた。
目の前を頭から血を流している人が歩き、襖や戸を担架代わりに、人々が運
ばれている。叫び声と泣き声がいたる所から聞こえ、遠くで幾本もの火柱が
見える。道路向かいの家々は軒並みつぶれ、線路向かいのマンションは、階
段が崩れ落ちて完全に傾いている。
想像を絶するとは、このようなことなのだろうか。

「神様がとうとう怒った…」私は、そう呟いていた。

とりあえず、地域の避難所に指定されている市民会館に行った。しかし、ガ
ラスが散乱していて、とても入れる状況ではなかった。私達は市の体育館を
目指して歩くことにした。だが、向かう途中で体育館には遺体が集まってき
ているという話を聞き、どうしようか迷っている時、娘の幼稚園のお母さん
仲間が声をかけてくれた。「うちのマンションのオーナーが、新しく近くに
建てたマンションの開き室を開放してくれるというから一緒に行かない?」
結局、4LDKのマンションの一室が、私達の避難所となり、120人もの
人々と共に生活を送ることになった。私が入った6畳の部屋には、30名あ
まりの人々が入った。足を伸ばして眠ることすらできない。しかし、そんな
状況にも関わらず、みんな驚くほど優しい。
数日後、近所の公民館で炊き出しが行われ始めた。物資が次々と届く。
日本中、世界中から、続々とボランティアの人々が集まり、募金が始まり、
無条件で私達に、愛情をかけてくれている。心からありがたかった。私はせ
めて自分が出来ることとして、人民大移動のように国道を歩き続ける人々に
避難所に多く届き過ぎたおにぎりやパンを配ることにした。

みんながみんなの為に祈り、そして動く。
それが、あたりまえのようだった。

六千有余の尊い命が、私達に教えてくれたのだろうか、それとも、あの激震
で心の壁まで崩れたのだろうか。日々、被災地では「ありがとう」の言葉が
交わされ、愛と感謝に溢れていた。
そして、街は驚異の早さで復興された。
それに伴い、心の壁も急ピッチで再建され始めていた。

つづく…