『雨弓のとき』 (9)                天川 彩



千駄木にあるレトロな喫茶店。そこが祥子と良一の週末のいつもの待ち
合わせ場所になっていた。出会ってから二ヶ月。季節はすっかり冬に移
り変わっていた。
この日、良一は休日出勤だったので、待ち合わせは夕方になった。先に
着いていた祥子は、奥のボックス席に通されていたのだが、メニューを
手にしながらしばらく神妙な面持ちで宙を見つめたままだった。
「注文は決まったかな?」
既に顔なじみとなったマスターが、祥子が握りっぱなしにしているメニ
ューを引き上げにきた。
「あ、じゃぁコーヒーで」
メニューをぼんやりと手渡しながら、自分の思考回路が止まっているこ
とを祥子は感じていた。

―気持ちを確かめる?でも、どうやって?―

数日前、親友の明日香から言われた言葉が、グルグルと脳裏を駆け巡っ
ている。しかし、コーヒーの芳しい香りが店内に漂ってきたことだけは
わかる。祥子が、その香りを胸いっぱいに吸い込んでいた時、重い木の
扉が開いた。
「いらっしゃい。あ、あちらにお座りですよ」
マスターは良一の顔を見るなり、祥子の座っている座席の方を向いた。

良一は、祥子の気持ちの変化など知る由もない。いつもと変わらぬ屈託
のない笑顔を祥子に向けて、軽やかに奥のボックス席までやってきたか
と思うと、躊躇することもなく向かいに座った。
「お待たせ。悪かったね、今日は仕事になってしまって」
「あ、いいえ…。大丈夫です」
祥子は、良一を前にして、どんどん頬が赤らんでいくのがわかった。自
分と毎週のように会っている良一。しかし、付き合っている…という訳
でもない。何も告白もされていないし、勿論、手ひとつ握るわけでもな
い。考えてみると、二ヶ月も毎週会いながら、ただ近所を散策するだけ
の散歩仲間のように思っているのかもしれない。それなら、悲しすぎる
…。微妙な沈黙をやぶるように、マスターが自慢のコーヒーをトレーに
乗せてやってきた。

「お待たせしました。ホットコーヒーです」
祥子に、そのコーヒーを差し出すと、良一の前にメニューを差し出した。
「メニューはいいや。僕は、ホットミルクにしようかな。マスター、ホ
ットミルクちょうだい」
「ホットミルクですね。かしこまりました」
カウンターに戻るマスターの後姿を目で見送りながら、祥子は、単純に
思ったことを口にした。
「ホットミルクって、なんだか意外」
「そう?寒い日はよくホットミルク飲むよ。今日は一日外回りだったん
だ。体が芯まで冷えてしまって、ほら」そう言ったかと思った次の瞬間、
良一は、自分の冷たい手の甲を祥子の頬に軽く押し付けた。
「キャッ」祥子は、あまりの衝撃に、小さな叫び声をあげた。
「あ、ゴメンゴメン。あんまり、祥子ちゃんの頬が暖かそうだなぁと思
ちゃって、つい。本当にごめん」
良一が、素直に頭を下げたので、祥子はバツが悪くなった。祥子にして
みたら、驚きはあったものの、内心は凄く嬉しかった。しかし、短い悲
鳴を受け、良一は、嫌っていると勘違いしてしまったかもしれない。そ
う思うと、どうにか今の悲鳴を否定しなければ、と思った。

「いえ、あの別に嫌だったわけではなく…。いいんです。頬っぺたに、
手をつけられても。あ、いや、あの…驚いたというか、なんというか」
「本当に、悪かったね。突然冷たい手を押し付けられたら誰だって嫌だ
よね」
「いえ、その…あ、ちょうど、えーっと…」
「何?」
「ですから…ちょうど」
「ちょうど?」
「えーっと…お正月は、戻られるんですか?仙台に」
「そうだね。毎年戻っているし」
「そうですか」
「何?なんだか今日は変だよ、祥子ちゃん」
「そんなことないです」と、言いながらも、祥子は意を決めたように大
きく息を吸い込んだ。そして、マスターが、カウンターの中で作業をし
ていることを目で確かめて、もう一度深呼吸をして、良一の方に体を向
き直した。

「あの…」
祥子のその姿につられて、良一ももう一度、きちんと向きなおした。
「はい?」
「あの、私たちの関係って、どんな関係なんですか?」
「どんなって…付き合っているんじゃないの?」
「え??」
「あれ?ご、ごめん。違うのかな?僕、勘違いして…いた?」
「でも、今まで何も」
「あ、そうか。そうだよね。なんとなく、始まっているのかな…って一
人で勘違いしていた。ごめん。そうだよね。何もそんなこと言っていな
かったしね。勝手に…アハハ」
良一の顔が、みるみる作り笑顔になっていくのが祥子にはわかった。
「ち、違うんです」
「ん?」
「私、前にも話したように、今まで男の人と付き合ったことないから」
「ないから?」
「だから、普通は『付き合ってください』とか言われて付き合うものか
と…。だから、私という存在は、ただの近所の散歩友達なのかなって不
安になって」
「そうか、ごめん。そうだよね、ちゃんと言っていない僕がいけないよ
ね。祥子ちゃん、ちょっとこんなところで照れるけれど、僕の彼女にな
ってくれる?」

祥子が小さく頷くと、タイミングよくホットミルクが運ばれてきた。
マスターがこのやりとりを見ていたのかどうか、二人にはわからない。
ただ、揃って妙に恥ずかしい気持ちで一杯になっていた。

「アチチ…」
良一は、照れ隠しに、運ばれてきたホットミルクを一気に口に流し込み、
そして、思い切り舌を火傷してしまった。
                     
                        つづく…