『雨弓のとき』 (8) 天川 彩
第三章
「祥子、で、最近どうなっているのよ」
大学近くにある行きつけのカフェの席についた途端、明日香が待ち切れ
なさそうに聞いてきた。
互いにマスコミ志願であることや、奨学金とバイトで学校に通っている
ことなど、何かと祥子との共通点が多い明日香。しかし、こと恋愛経験
においては子どもと大人ほどの違いがあった。祥子が知っている限りで
も、明日香は大学に入ってからの二年間で、彼氏が三人代わっている。
今まで誰とも恋愛らしい恋愛をしたことがなかった祥子にとって、明日
香の恋の話は小説を読むより楽しかった。が、今は明日香が、あきらか
に祥子の恋の進行状況を楽しんでいる。
祥子と良一は、毎週末になると、近所を散策し夕飯を食べる、というの
が習慣のようになっていた。そして、その状況は、二ヶ月以上変わらな
いまま、そろそろ年も暮れようとしていた。
「最近って聞かれても、そのまんまだよ。いつものように土曜日になる
たび散歩して、食事して。あ、先週は神田明神まで足を伸ばしたから、
少し進展したかな」
「何言っているの。散歩する場所の問題じゃなくって、関係のことよ」
「関係か…。どうなんだろうね」
祥子はそう口にしながら、進展の遅さに少しイラついている自分の感情
に気がついた。しかし、この感情を同処理していいのかもわからなかっ
た。
「気持ち確かめたら?」
「どうやって…」
「『私とどういうつもりで毎週会っているんですか?』とかさ」
「そ、そんなの無理だよ。だって、今のところ私は近所の案内役なわけ
だし、変なこと言って、この関係が無くなったら…」
「そしたら、もう会わなきゃいいじゃない。なんだかさ、前から思って
いたんだけど、祥子と毎週末に会いながら、何にも言わないなんて、気
持ちをもてあそんでいるようじゃない」
「そんな。会ったこともないのに、そう簡単に言わないでよ。そんな人
じゃないし」
「あれ、怒ってる?」
「べつに…怒ってはいないけれど…」
「そうか、そんなに好きなんだ」
明日香はそう言うと、祥子の顔をイタズラっぽく覗きこんだ。
「やめてよ。こんなところで格好悪い」
祥子は慌てて周りを見回した。大学の近くにあるこのカフェは、座席の
間隔が狭く、時折本などを読んでいると他人の会話内容まで、丸聞こえ
になる時もある。幸いにしてこの日は、それぞれのテーブルで、会話が
なされていたので、誰も聞いている風の人もいなかった。
ただ、自分が恋をしていることを、明日香以外の誰にも知られたくなか
った。当の良一にも…。
「だけどさ、やっぱり私は祥子のことが大好きだから、なんだか、この
まんまじゃなぁって思うわけよ。ただ、毎週会うっていうのも、向こう
はかなり祥子のことが気に入っているとは思うんだけど」
「…かなぁ」
「多分ね。やっぱりさ、ちゃんと聞いたほうが良いよ」
小一時間喋った後、彼氏と待ち合わせているからと、明日香は言い残し
てカフェを出て行った。
明日から冬休み。熊本に帰省する前に、祥子と何処か温泉にでも一緒に
出かけようと以前話していたことなど、明日香はすっかり忘れてしまっ
たようだった。『彼とさ、やっと仲直りできたから、今晩から3日間、彼
氏の家にお泊まりして、そのあと熊本に帰ることにしたの』と嬉しそう
に話していた明日香のことが、祥子はどこか羨ましくもあり、寂しくも
あった。
祥子は、新たにカフェオレを注文し、鞄の中に入れていた短編小説を開
いた。しかし、いくら読もうと思っても、文字がなかなか進まない。結
局、本をぼんやり見ているだけで、実際のところは、ずっと明日香に言
われたことを考えていた。
つづく…