『雨弓のとき』 (7)                天川 彩


「祥子?今、どこ?」
電話の相手は、大学の同級生、黒沢明日香だった。
「家だよ」
「もう帰ってきたの?でさ、どうだったのよ」
「え?」
「え、じゃないでしょ。今日、どうだったのって聞いているんだから」
「うん、まぁね」
「もう…。あんなに行く前は、どうしよう、何着ていこうって相談して
いたくせに」
「さっきまで一緒だったよ」

祥子に、親友と呼べるような存在ができたのは、大学に入ってからだっ
た。熊本出身の黒沢明日香とは、妙にウマがあった。例の展示会のコン
パニオンバイトも、最初は明日香が見つけてきた情報だった。当初の予
定では二人で一緒に行く予定にしていた。しかし前日、明日香は急に風
邪で高熱を出してしまい、結局バイトに行けなくなってしまった。祥子
は、明日香に逐一状況報告をしていたので、当然、バイト最終日の『不
本意な食事誘われ事件』の全貌も把握していた。

「え〜!何?デートしていたの?」
「デートっていうか…何なんだろね」
「だって、さっきまで二人で一緒にいたんでしょ。それをデートって言
わず何なのよ。でさ、何処へ行ったの?」
「近所…」
祥子は蚊の鳴くような小さな声で話していたので、電話口の明日香には
聞こえにくかったようだ。
「え?何て?」
「だから、近所…」
「なんで?お台場とか、表参道とか、日比谷とか…いろいろあるでしょ。
デートなんだから、映画の一つも連れて行ってもらえばよかったのに」
「ほら、人の多い所は私、気後れしちゃうし」
「何言っているの。東京近郊で生まれ育った人が。私なんか、阿蘇のカ
ルデラを見ながら育ったけれど、新宿だって渋谷だって、気後れなんか
しないわよ」
「明日香は、そうだよね。何処でも平気だもんね」
「私のことはいいって。で、どうなったのよ?」
「別に、何もないよ。普通に話して…で、終わり」
「終わりって、何、その男の人、彼女とかいたんだ」
「ううん、今はいないらしい」
「そんな話もしたの。で?で?どうなった?」
「だから、何もないって」
「付き合うことになったりしなかったの?」
「そんな展開ないよ。まだ会ったの二回目だし」
「次はいつ会うの?」
「別に約束していないし」
「何で?」
「だって…だってさ…。私からどう誘ったらいいのよ」
祥子は、この先の感情をうまく言葉に言い表せなかった。その空気が明
日香に真っ直ぐ伝わった。
「あれ?祥子その人のこと、結構マジで気に入っている?」
「やめてよ。気に入るとかじゃなくって…」
「じゃぁ、好きになった。かな?」
「…」
「やったじゃない、祥子。生まれて初めての恋じゃないの?」
「そんな」
「でも、今まで恋したことないんだよね」
「それはそうだけど。でも自分でも、よくわからない」
「その人、今は彼女いないんでしょ。チャンスチャンス。応援するから
さ。あ、ヤバイ。バイト行く時間だ。じゃ月曜日にね」

電話を切った時には、すっかり部屋は薄暗くなっていた。明日香はいつ
もより、少し早めに銭湯へ行く準備をして、再び部屋を出た。

祥子の家の徒歩圏内には、銭湯が数件健在している。昭和の匂いを留め
ている理由の一つに、この銭湯の存在も大きいかもしれない。お気に入
りの銭湯がいくつかあることが祥子は幸せだった。昔、祖母の家にも風
呂がなく、祖母の家に泊まる日は、銭湯だった。家の小さな風呂よりも
広々とした湯船や、長風呂の祖母が、あがってくるまで、番台の上から
流れているテレビをずっと見ることができる時間も好きだった。しかし
祖母の家にも家庭内に風呂が備えられ、いつしか銭湯に行く機会すら無
くなっていた。

だから祥子にとっては、この銭湯通いは苦痛ではなく、楽しい時間だっ
た。この日、祥子は家から一番近くにある銭湯を選んだ。湯船で、一日
のことを思い返していたので、いつもより少し長めに風呂に浸かってし
まい、出た時には、クタクタになっていた。夕食を作るのも面倒になり
近くのコンビニでおでんでも買って帰ろうと、自動ドアの前に立った時
だった。

「あっ!」

夕方別れたはずの良一が、ちょうど店から出てきたところだった。
ノーメイクにジャージ姿。洗面器片手に、首元にはタオルまで巻いてい
た祥子は、声にもならない極短い叫び声をあげ、慌てて洗面器を上に持
ち上げ、顔を隠した。あまりに、日中の格好とはギャップがあり過ぎて
恥ずかし過ぎたのだ。が、既に遅かった。

「あれ、祥子ちゃん」
祥子は仕方がなく、洗面器から顔を出し、ついでに首もとのタオルもズ
ルズルと外した。
「いま銭湯の帰り?」
良一の質問に、祥子は真っ赤になりながら無言で頷いた。
「そうか。それにしてもまさか、一日に二度も会えるとは。やっぱりご
近所さんていうのは凄いね」
今度は、無言で首を振った。
「あれ?本当は僕、嫌われているのかな」
祥子は、無言のまま更に大きく頭を振った。

その時、太ったおばさんが咳払いをした。どうやら祥子と良一は、コン
ビニの入り口を塞いでいたようだった。コンビニ脇の路地に二人で移動
しても、祥子はうつむいたままだった。

良一は、祥子の洗い髪から匂うシャンプーの香りや、ほのかに漂ってく
る石鹸の香りと共に、さっきふいにした質問に、大きく頭を振った意味
を思い返して、急に心臓が高鳴っていた。しかし、自分から何か話しか
けないと会話が進まないことは察していた。

「ね、寒くない?」
「あ、いえ、大丈夫です」
「コンビニに買い物に来ていたんだよね。ごめんね、邪魔しちゃって」
「いえ…たいした用事じゃないので」
「だけどさ、やっぱり僕らよっぽど縁があるんだよね。あの後、家に帰
って洗濯してさ、何か夕飯でも作ろうかと思ってスーパーに行こうとし
ていたら、実家のお袋から電話がかかってきてさ、婆ちゃんの具合だと
か親父の還暦の話だとか、話が長くてね。電話切ったら、もう作るの面
倒になって、コンビニのおでんでいいかなって。ほら」
良一は、コンビニの袋を持ち上げてみせた。
「私も、おでん買おうと思って、コンビニに入ったんです」
「そうなの?」
「はい」
「なんだ。それじゃ、もっと沢山おでん買ってさ、一緒に食べようか。
今からうち来ない?」
「え?」
「…なわけないか。男の一人暮らしの家になんか来ないよな」
「…」
「ごめん、変なこと誘って」
「一緒に外でおでん食べませんか?」
「え?何処で?」
「例えば、また根津神社に行って椅子に座るとか」
「それさ、寒すぎるよ」
「ですよね…」
「じゃ、何かこの辺で一緒に何か食いに行く?」
「だけど、今日はこんな格好だから…」
「近所なんだし、大丈夫だよ」
「だけど…やっぱりやめておきます」
「残念だな。折角、また会えたのにね」
「はい」
「そうだ、明日。明日の予定は?明日も日曜だしさ」
「明日は朝から夜までバイトです」
「そうか。それじゃ無理か」
「あ、あの…また来週とか、どうですか?今度はもう少し違うルートを
案内します」
「そうだね。それじゃ、また来週も近所歩いて、そして今度は夕食の時
間まで一緒にいようか」
「あ、はい」
「じゃ、時間や場所は、今日と同じでいいかな?」
「はい」
「お風呂上りなのに外で引き止めて悪かったね。それじゃ、また来週ね」

良一に見送られるように、祥子は再びコンビニの中に入った。そして、
おでんの大きな鍋を覗き込みながら、良一は何の具を選んだのだろう、
と思った。タマゴ、ダイコン、ハンペン…どれも、まだ煮込みが足りな
さそうで、美味しそうに見えない。コンビニのおでんより、自分の作っ
たおでんの方が断然美味しいのだから、いつか食べさせてあげたいな…
と祥子はふと思った。そしてそんな大胆な自分に驚きながらも、ニヤつ
く顔を止めることができなかった。

                  つづく…