『雨弓のとき』 (69)                天川 彩



祥子は、曖昧な笑顔を向けて、とりあえず外に出た。妙に息苦しい。
ふらふらと足の向くまま歩いていくと、小さな海岸に出ると、海岸に伏
せてあった小さな黒い舟の横に座った。

生活を守る為、海の上で命と隣り合わせに生きる男達を、女たちが祈る。
その祈りの形が文様となったのが、アランセーターなのだ、という話し
を、かつて良一から聞いたことを思い出した。

祥子は、あの優しい良一の顔が浮かび、いたたまれない気持になった。
自分は夫、良一の為に何をしてきたのだろう…。改めて思い返してみる
と、何一つ思い当たるものはなかった。

更には、命と隣り合わせに人々が必死で生きているという、この小さな
島で、自分は命を絶とうとしている。自分の行為の身勝手さに改めて気
がついた祥子は、愕然とした。

しかし…。ここから先、自分はどうしたらいいのかも、全くわからなく
なっていた。

「良一さん…。お母さん…。真由子…。」

祥子は、一番会いたい人たち。一番愛しい人たちの名前を小さく呟いた。
頬を涙が伝った時、冷たい滴がポツリと頬にかかった。雨だった。

海の上を見る見るダークグレーの雲が覆い、あっという間に強い雨が降
って来た。祥子はずぶ濡れになりながら、涙と雨とが交じり合った瞳で
海を眺めていた。

しばらくして、ふと、船の背後に人の気配を感じて、祥子は振り向いた。
年配のお爺さんが立っていた。
「あんた、ワシの船の横で何で座っとるんじゃ?」
かなり、なまりの強い英語だったが、ゲール語ではなかったので、辛う
じて祥子に通じた。
「あ、ごめんなさい。すぐどきます」
「いや、そんなことより、こんなに濡れて。あんた、この島に何をしに
来たんじゃ?」
何も答えられず、祥子が俯いていると冷たい風も吹きつけてきた。
「まぁ、とにかく、そのままじゃ体に毒じゃ。ちょっと待っていなさい」
と言い残すと、すぐ近くに建つ家の中に入っていった。

ややしばらくして、今度はお婆さんが出てきた。
「あら。まぁまぁまぁ」
お婆さんはそういうと、祥子の腕を持ち静かに立ち上がらせて「とにか
く体もかなり冷えているし、うちの中に入って」と背中を押してきた。

祥子は、されるがままになっていた。

「とにかく、バスルームで着替えたらいいわ。私の服だから、少し大き
いかもしれないけれど、我慢してね」
洋服と共にバスタオルを手渡され、祥子は見ず知らずの外国家庭のバス
ルームまで案内された。

「ごめんなさい」
祥子がその女性に言った。すると「なぜ、謝るの?」と驚いた顔をして
聞いた後「こういう時は、ごめんなさい、じゃなくて、ありがとう、と
言うのよ」と笑った。


バスルームから出てくると、暖かいミルクティが用意されていた。
祥子は血の気が戻って来るのを感じていた。
「寒いでしょ。これ着てちょうだい」
肩にかけられたのは、アランセーターだった。祥子は、その編み目文様
をそっと触ってみた。木の葉のようなものと、二重のジグザグ模様で出
来ていた。ボコボコとした肌触りが、妙に懐かしく感じる。

「今、触っているの、何の模様かわかる?」
それは、木の芽のような文様だった。
「木の葉ですか?」
「確かにそうなんだけど、これは『生命の木』といって家系図のような
ものを表しているの。長寿と子孫繁栄の願いが込めているのよ」
祥子は、母親と娘の顔がとっさに浮かんだ。そして次に、二重にジグザ
グに編まれた文様を指差して「これは?」と質問してみた。
「それ?それは、夫婦共に歩むっていう文様。苦しい時も楽しい時もず
っと一緒にいれるように願を込めているのよ。私は、この文様が好き」

そういうと、笑顔のままずっと静かに座っていたお爺さんのシワが入っ
た黒くてごつい手の上に、白くてシワが寄った自分の細い手を重ね、更
には見つめあいながら笑った。

祥子は、無性に良一が恋しくなってきた。

                          つづく…