『雨弓のとき』 (67)                天川 彩



深い眠りから目を覚ますと、飛行機はアイルランドの首都、ダブリン空
港に到着しようとしていた。
窓の下を覗き込むと、どんよりと重い雲が町の上にかかっている。
飛行機は急降下をして、その雲を割るようにして入りアイルランドの町
並にグングン近づいていった。

祥子は大きく一度深呼吸をすると静かに目を閉じた。
機体の車輪がキュッと一度音を立てらかと思うと、次にゴーと唸りなが
ら滑走路の中に滑り込んでいく。
「着いた」
祥子は、誰にいう訳でもなかく小さく呟いた。

祥子にとって、何もかもが初体験の外国旅行。ー出来ればこんなかたち
ではなく、良一や真由子と来てみたかったーと頭の中に思いがよぎった
が、祥子は打ち消すように小さく首を横に振り、隣の客に続き飛行機か
ら降りた。

ダブリン空港は、成田空港や乗換えで使ったアムステルダム空港に比べ
て、予想外に小さな空港だった。
それでも入国審査では、何一つ隠し事があるわけでも無いのに、審査官
の目が恐く、ようやく終えて出てきた時には、祥子の全身は汗でじっと
り滲んでいた。祥子は、ここから先の乗り継ぎを調べようとガイドブッ
クを開きかけたが、トラベルインフォメーションの看板が目に入ったの
で、そちらに向った。

祥子が最終目的地として決めたのはイニシュモア島という場所だった。
夫、良一の勤務するアパレルメーカーの名前にもなっている島で、かつ
て良一と共に旅行に行くはずだったアイルランドの小さな島…。

カウンターの若い女性は、とても早口だった。祥子は、もともと英語が
好きな科目の一つでもあり、大学でもそこそこ上位の成績をとっていた
ので、会話にはある程度自信があったのだが、実際には難しかった。

ただ、長距離バスに乗りゴールウェイという港町まで移動して、そこか
らフェリーに乗れば行けるということだけは理解できた。この時、すぐ
に向うバスも出ているようだったのだが、祥子の身も心も完全に疲れ切
っていたので、この日は、空港近くのホテルに宿泊するという選択をし
た。

どうにか、ホテルまで辿り着き、チェックインを済ませて部屋に入った
時までは覚えている。しかし、そこからの記憶が一切なかった。
体の冷えと体の痛みで目が覚めた時には、後一歩でベッドというところ
の、ベッド脇の下で横になっていた。
「あ痛たたた…」
気を失っていたのか、硬いカーペットの上で何時間も同じ姿勢で横にな
っていたらしく、体も硬直している。祥子はギシギシと軋む関節の音を
聞きながら、ゆっくりと体を起こして時計を見た。三時を少しまわった
ところだ。ー日本では、今何時ぐらいなんだろうー
一瞬そう思ったが、正直なところ日本を出てきてから、どの位の時間が
過ぎたのかも検討がつかない。

祥子は、ボストンバッグから着替えを取り出すと、シャワールームで思
い切り熱いシャワーを全身に浴びて、今度はベッドの中にちゃんと潜り
込み、目を瞑った。しかし、良一や真由子の顔が、母親、敏子や他界し
た祖母や父親の顔が、更には仙台に住む良一の家族の顔まで一人ひとり
浮かびあがり、涙が止め処なく溢れ出て、空が白々と色を変えるまで眠
りにつくことができなかった。

祥子が、目を腫らせたままゴールウェイ行きのバスに乗ったのは、翌朝
の午前十時過ぎだった。バスの中の日本人は、どうみても祥子一人だけ。
それどころか、観光客そのものが少ないらしく、乗客たちの多くは、地
元の人たちのようだった。

バスはアイルランドを横断するように、いくつかの町を越えて、西海岸
にあたるゴールウェイの町に着いた。祥子は、中世のような美しい町並
の道を、少し歩いてみたいと思ったがすぐにフェリー行きのバスがやっ
てきた。それは、さっきまで乗っていた最新の横断バスとは全く違う。
スプリングも壊れかけた年式の古いバスは、ほとんど乗客を乗せないま
ま、フェリー乗り場までノンストップで走った。


                       つづく…