『雨弓のとき』 (66)                天川 彩



突発的に荷物をまとめ、成田空港行きの電車に乗ったまでは良かったが、
そこから先どうしたらいいのか祥子は検討もつかなかった。国際線はお
ろか、国内線にだって一人で乗ったことなど無いのだ。
電車に乗った後で、成田空港は二つのターミナルに分かれていて、駅も
二つあることがわかった。どっちで降りたほうがいいのか。いや、そも
そも、何処の航空会社の飛行機に乗ればアイルランドに行けるのかすら
全く調べてもいなかった祥子は、とりあえず終点の成田空港駅で降りる
ことにした。

改札を出た途端だった。警官のような制服を着た警備員に「パスポート
か身分証明を出してください」と言われて祥子は慌てた。バッグの中を
急いで探り、まだ全く使ったこともないパスポートを出して手渡すと、
警備員は中身をチラッと見ただけで「ありがとうございます」と返して
きた。何も悪いことなどしてはいないし、咎められたわけでもないが、
祥子の心臓はしばらくバクバクしていた。

空港ビルの中は、大きなキャスター付きのバッグを楽しそうに押してい
る中年の女性グループや、早足で歩くスーツ姿のビジネスマン。大きな
リュックとサンダル履きの青年や、外国人の家族連れなどが、旅なれた
雰囲気を漂わせて行きかっていた。全てが初めての祥子は、すっかり気
後れしてしまい、とりあえずベンチに座った。目の前を幾人もの人たち
が通り過ぎて行く。その姿をただぼんやりと眺めていただけで、祥子は
どっと疲れてきた。ふと時計を見ると、夕刻の四時をまわている。空港
に着いてから一時間以上も同じ場所に座り続けていたらしい。祥子は、
大きく息を吸い込むと、重い腰をあげて案内板を見て書店に向った。
アイルランドのガイドブックは予想外に簡単に見つかった。パラパラと
めくってみると、アイルランドの様々な観光案内のほかに、空港での両
替の仕方や日本からの出国についての情報も詳しく載っている。

祥子は、とりあえず空港近くの宿に泊まり、この本をまずは読むことに
した。そう決めた途端、祥子の全身の緊張がほぐれたのか、急に体が軽
くなったように感じた。

空港のカウンターで教えてもらったホテルは、空港からほど近いところ
にあった。案内された部屋は、一人で使うには広すぎるほどの広々と綺
麗な部屋だった。

ーこんな所なら、今度は良一さんと来たいなー

そう思った途端、祥子は少し可笑しくそして強く悲しくなった。
アイルランドで命を絶つために、ここにいる。だから今度はない…のだ。
祥子は、バッグの中からマナーモードにしていた携帯を取り出してみた。
何度も良一から、そして母の敏子からの着信履歴がある。待ちうけ画面
には、最愛の娘・真由子の笑顔。祥子は、その娘の顔をまじまじと見て
そして画面の上から指で撫でた。

「ごめんね。ママを許してね」祥子はそう呟くと、携帯の電源を切り
ベッドの上に突っ伏して、枕で声を消しながら大声で泣いた。

                          つづく…