『雨弓のとき』 (65)                天川 彩



プツン。

祥子は心の中か、頭の中で何かが確かに切れる音を聞いた。

自分が壊れていくのを微かに感じてはいたが、頭の中は真っ白になって
いく。胸がかきむしられるように苦しい。ドロドロとした感情が自分の
中に噴出し…自分が何をしているのかも、わからなくなっていた。
みんな嫌。みんな大嫌い。
ミンナダイキライ・ミンナダイキライ・ミンナダイキライ…。
まるで、その言葉が呪文のように祥子を取り込んでいった。

そして、ハッと我に返った時。

真由子を床の上に押し倒し、小さな肩を祥子の両手で強く押さえ込んで
いた。そして、その手がまさに、真由子の細い首もとまですべり出そう
としていた。

祥子は慌てて、自分の手を真由子から離した。

ー私、何てことを…ー

祥子は自分が恐ろしくなり、ガタガタと震えだした。
「ママ〜ごめんなちゃい」
真由子は起き上がると祥子に抱きつきながら、おもらししたことを一生
懸命謝っている。祥子は、自分の方こそ謝らなければと思いながらも、
自らへのショックで言葉も失い、ただ真由子を強く抱きしめるだけで精
一杯だった。

ーみんなが嫌いなんじゃない。私のことが大嫌いなんだ。そうだ、私が
この世からいなくなればいいんだ。そう、私が生まれてきたことが間違
っていたんだ。私が静かにいなくなれば、みんな平和になるんだー

祥子の歪んだ感情の刃は、今度は祥子自身に向っていた。
ただ、今度は酷く冷静にジワジワと。

祥子は、真由子を着替えさせると、粗相した絨毯を丁寧に拭き、更に家
の中を綺麗に片付けた。そして真由子お気に入りのアニメDVDを流す
と、真由子は夢中でテレビ画面を見始めた。祥子は、リビングの椅子に
深く腰掛けてしばらく考え…そして、寝室に行った。

ー薬箱の中に入っている薬をいっぱい飲んだら死ねるかな…ー
タンスの奥に入れていた薬箱を取り出そうとした時、上の引き出しが引
っかかり、真っ赤なパスポートが落ちてきた。

良一に「アイルランドに行こう」と誘われて初めて作った青いパスポー
トは、真由子の妊娠で一度も使うことがなかった。婚姻届を出した後
「子どもが生まれたら、子連れでアイルランドへ新婚旅行に行こうよ」
と言われ、切り替えた赤いパスポート。結局、それも一度も使うことが
無いまま、タンスの奥で眠っていた。
祥子は、真新しいままのパスポートを見ているうちに、無性に自分が可
哀想に思えてきた。

ーどうせ、死ぬなら一度は行きたいと思っていたアイルランドに行って、
そこで死ぬのも悪くないかなー

祥子は、薬箱をタンスの中に戻すとパスポートをハンドバックに仕舞い
込み、そしてボストンバッグに洋服や下着を詰め込んだ。

そして、母親の敏子のところへ電話をかけた。朝からの騒動で、仕事を
休んで数時間前に駆けつけてくれた敏子へ再びお願いするのは、少し気
が引けたが、やはり母親にお願いするしかなかった。

「もしもしお母さん、今何処にいる?」
「ちょうど、家に着いたところだけど」
「そう…か。あのさ、悪いけどもう一度来てもらってもいい?」
「どうしたの?やっぱり具合悪いの?」
「そうじゃないんだけど、お母さんに来てもらいたくって…」
「今日は会社休んだし、別にもう一度行くのはいいけど。大丈夫なの?
何か変よ。声も…」
「大丈夫。悪いけど、お願いします」
「わかった。それじゃ、これからまた行くね」
「お母さん…」
祥子は、急に涙が溢れ出してきて言葉に詰まった。
「もしもし、祥子?どうかしたの?本当に大丈夫?」
「お母さん…今まで色々ごめんなさい。そしてありがとう」
「ちょっと、何か変よ。とにかく待っていなさい。すぐそっちに行くか
ら」
「ありがとう」

電話を切った後、祥子はボストンバッグを持って玄関へ向った。
真由子は夢中でアニメを見ている。
「ママ、ちょっとだけお出掛けするけれど、今、バーバが来るからいい
子で待っててね」と声をかけると、素直に「ハーイ」という返事が戻っ
てきた。

祥子は、静かにドアを閉めると駅に向った。

                        つづく…