『雨弓のとき』 (64)                天川 彩



母親の敏子が帰った後、祥子は無性に睡魔が襲ってきた。ベッドに倒れ
こむと、体が沈みこむように重い。隣で真由子が何かをしきりに言って
いるが、既にわからない。意識が遠のいていくように感じたその時、電
話が鳴った。

ー今は動きたくないー

祥子は、そのまま電話に出ないでおこうと思った。が、真由子が電話を
取ってしまった。
「ママー」
嬉しそうに寝室まで運んできた受話器を、真由子から受け取らないわけ
にもいかず、祥子はため息をつきながら半身を起こし、受け取った。

「…もしもし、代わりましたけど」
祥子の気だるそうな声とは裏腹に、電話の主は元気漲る声で
「祥子?元気?」と返してきた。
その声が大学時代の親友、明日香であることは直ぐにわかった。
しかし、この日の祥子は親友であろうが誰とも話したくない気分だった。
ただ、明日香はそんな状況を知る由もなく、更に元気のよい声を発して
きた。

「ねぇ。祥子、元気にしてた?今、電話に出たの真由子ちゃんでしょ。
ついこの前まで赤ちゃんだったのに、もうお喋りできるんだ。ビックリ
だよ。あれ?祥子聞えてる?もしもし?」
「あ、ごめん…。聞えてる…」
「あれ?ちょっと声おかしいね。風邪でもひいたの?」
「え?ううん。別にひいてないよ…」
「ならいいけど。ねぇ祥子。今、私何処にいると思う?」
「何処って?」
「当ててみてよ。ねぇ何処だと思う?」

明日香の声は、いつになく妙にハイテンションだった。
ー早く電話切りたいー
心の中でそう思っていても、流石にそれは口に出せない。
「ねぇ。ねぇ。何処だと思う?何処でもいいから言ってみてよ」
「何処って…部屋の中とか…?」
「違うよ〜。正解は、なんと富士山の山頂でした〜!ねぇ驚いた?」
「富士山…?」
「うん。日本一の山のてっぺんからだよ。さっきようやく山頂まで昇っ
たんだ」
「へぇ…」
「へぇって、凄くない?」
「あ、そうだね…。凄いね…」
「でしょ!実は会社の新入社員研修の一貫として、富士登山に来てるの。
山頂でも電波が届くって聞いたから、つい嬉しくなちゃって、さっきも
熊本の親のところに電話したんだけど、祥子にもこの感動伝えたくって」
「そうなんだ。あ、よかったね…」

祥子は、この時、こう返答するのが精一杯だった。そして、
「悪いけど、今用事あるから切るね」と一言言うと電話を切った。

祥子は再びベッドに倒れてみたが、もうさっきのように眠れそうにはな
い。

ーあ〜イライラするー

そこに真由子がやってきて「ママ、チッコー」と言ったかと思うと、寝
室の絨毯の上におもらしした。

                        つづく…