『雨弓のとき』 (62)                天川 彩


「なんだ…祥子いたんだ。ねぇ、何があったの?どうしたのよ」
母の敏子は、玄関口で祥子の顔を見てホッとしたのか、拍子抜けした様
にリビングの椅子に座り込んだ。

「何がって…別に」
「別にってことないでしょう。良一さんから『祥子が出て行ってしまっ
た』って、凄く慌てた声で電話かかってきて、奥で真由ちゃんの泣き声
はしているし…。お母さん、仕事休んで慌ててやって来たんだから」
「そうか。ごめん」
祥子は、大きくため息をつくと、リビングに散らかっていた新聞や食べ
残しのパンなど片付け始めた。

「何…夫婦喧嘩?原因は何なの?出て行ったって、何処行っていたのよ。
真由ちゃん置いて。そうだ真由ちゃんは?」
祥子は、無言で片づけを続けていた。
「ちょっと、祥子。人が心配して駆けつけているのに、何なの?その態
度!」
「だって。そんな矢継ぎ早に質問されたって…」

その時、奥の寝室から真由子の泣き声がした。
「ほら、起きちゃったじゃない。さっきまでグズッていて、ようやく寝
かせたのに!」

そういうと、祥子はプリプリ怒りながら寝室に向かい、真由子を抱きな
がら戻って来た。真由子は祥子の腕の中で目をこすりながら小さく泣き
じゃくっていた。
「ほら、泣かない。眠いんなら、もうちょっとネンネしなさい」
「祥子、真由ちゃん寝起きなんだし、あなた母親なら、もう少し優しく
接してあげなきゃ」敏子はそういうと、真由子に両手を差し伸べた。
真由子は、ややしばらく顔を見て、敏子だと確認すると「ばぁば」と簡
単に敏子の腕の中に移動した。

しばらく、そのままじっとしていたが気持ちが落ち着いたのか、敏子の
腕の中からスルスルと抜け出すと、勝手におもちゃを広げて遊び出した。

「真由ちゃん、あっという間に大きくなったわね」
「そうかな。毎日ずっと一緒にいると、あまり実感ないけれど。まだま
だ赤ちゃんだし」
「そうね。でも、日に日に成長していくから子どもって面白いのよね」
「私を育てるのも面白かった?」
「う〜ん。難しい質問ね。やっぱり若いときには余裕が無くて面白いと
は思わなかったかな。仕事も忙しかったし。おばあちゃんが近くにいて
くれて助かっていたけど、一人だったらキツかったかもしれない」
「やっぱりね〜」
「何よ、何がやっぱりなの?」
「私、お母さんに可愛がられた記憶もないし」
「え〜?嫌だ。本気でそれ思っているの?」
「思っている」
「お母さんなりに一生懸命あなたを育ててきたのに」
「冗談、冗談。ちゃんと可愛がられました」

しかし、半分は本音だった。
祥子は、もっと母親に可愛がられたいと思い続けている節があった。
ただ、大人になってからではあっても、こうして駆けつけてくれること
が嬉しかった。祥子は、思い切って、良一のことを敏子に相談してみよ
うかと思った。

調度その時、真由子が一人遊びに飽きたのか、敏子の側に来て、おもち
ゃを手渡すと「遊ぼう」と手を引っ張った。
敏子も真由子に反応して、「なぁに」と椅子から立ち上がると、カーテ
ンの横に真由子が広げていた、積み木の山の横に座った

祥子は、二人の姿を見ながら、微かに心に隙間風が吹くのを感じていた。
しかしまさか自分が敏子と真由子、それぞれに嫉妬しているとは想像も
していなかった。
                          つづく…