『雨弓のとき』 (61)
                天川 彩

祥子は、良一と顔を合わせたくなかった。
明け方、リビングのソファーから抜け出すと、マンションの扉を静かに
開いて外に出た。外は薄っすらと茜色に染まり始めていた。
朝の冷気が一気に祥子の体にまとわりつく。ブルッと身震いがしたが、
寝室のクローゼットの中にあるジャケットを取りに行く気になれず、シ
ャツの襟を立ててカーディガンのボタンを上まで閉めた。

エスカレーターを降りて、外に出ようとした時、新聞配達の青年が入れ
違いに入ってきた。「おはようございます」と爽やかな声で挨拶をする
青年に、祥子は挨拶を返すこともできず、目を伏せた。

祥子は自分の中に淀んだ感情があることに気が付いていた。
行きなれた、根津神社に行こうかと思ったが、こんな気持ちで神様の前
に立つのも気が引ける。しばらく考えた末、上野公園に向って歩き出し
た。

祥子はしばらく公園のベンチで時間を潰していた。
ジョギングをする夫婦や太極拳をしているグループ。そしてラジオ体操。
健康的としかいいようのない「朝」がそこにはあった。
祥子は自分の存在と、この公園の朝がまるで別世界のように感じていた。

ぼんやりとしながら腕時計を見ると、七時を少し過ぎていた。
良一が、そろそろ出勤する時間だ。
ー幼い真由子の為に、戻らなければ…。私は母親だしー
そう思った途端、祥子は急に胸が苦しくなり、呼吸がうまく出来なくな
ってしまった。息がだんだん浅くなる。と、その時、犬を散歩させてい
た老婦人が「大丈夫?」といいながらベンチの前にやって来た。
そして、祥子の背中をゆっくり何度もさすり始めた。
祥子は、少しずつ呼吸の感覚が戻ってきた。そして最後に大きく深呼吸
をすると、体の中の血液がサーッと戻ってきたように感じた。

「ありがとうございます。見ず知らずの私に…」
「あら、そんなこと当り前だもの。苦しそうだったし。それより呼吸戻
ってよかった」
そういうと、その老婦人は、犬を連れて再び歩き出した。

祥子は、当り前といったその老婦人の言葉を幾度も自分の胸の内で繰り
返していた。
ー私は自分のことで精一杯。他の、増してや見ず知らずの人になんか、
時間を割こうとも思わなかった。いや。どう接していいのかわからない
のだ。そんな自分が、真由子の母親であっていいのだろうか。でも、今
はとにかく家に帰って、真由子の面倒をみなきゃー

祥子が家に戻ると、出勤時間が過ぎているはずの良一が、まだ家の中に
残っていた。

「あれ…?会社は?」
祥子がとぼけた声で聞いた。良一はそんな祥子の言動も態度も全て気に
入らなかった。
「会社は?じゃないだろ!何処行っていたんだよ、真由子置いて!」
珍しく良一が怒鳴った。祥子は少し驚いたが、まだ動じていなかった。
「何処って、ブラブラ…」
「ブラブラってな、お前!俺は夕べ言っただろ。今日は大事な会議があ
るからって!なのに、こんなに小さな真由子置いて、俺まで出て行くわ
けに行かないだろ。今日のプレゼン俺、出れなかったじゃないか!」
「ふ〜ん。ト・モ・ミさんと夜な夜な、資料を作っていたんだ。だから
ハートマークまで付いたメールが来るんだ」
「何言ってんだ?お前!」
「携帯…」
「え?」
「携帯にハートマーク。あれ何?」
祥子も遂に、自分の疑問を口にした。
「携帯って…。またお前誤解していると思うけど、本当に三浦とは何も
関係ないから。そんなことより…いくら夫婦といえども、携帯見るなん
て、やっちゃいけないことだろう」
「中身なんか読んでいない。タイトル表示だけしか見ていない。けど…
やっぱり怪しいよ」
「祥子。もういい加減にしてくれよ!ここのところずっと、思っていた
ことなんだけど、最近の祥子、おかしいよ」
「おかしなのは、良一さんよ!もう…こんな生活イヤ!!」
《パシン!》
突然、祥子の左頬に熱い衝撃が走った。次の瞬間、祥子は我慢していた
悔し涙が溢れた。
「ごめん。殴ったりして。でも、祥子、冷静になれよ。三浦とは本当に
何も無いし。そんなことより、祥子は真由子の母親なんだから、もっと
強くなれよ」

祥子は、その言葉に何も答えなかった。

「それじゃ、俺会社に行くから。あ、それから、さっき越谷のお義母さ
んに電話して、来てくれるように頼んであるから」
「えっ?お母さんて?」
「だって、祥子は家出しちゃうし。どうしようかと思ってさ」

それから一時間ほどして、母親の敏子がやって来た。

                        つづく…