『雨弓のとき』 (60)
天川 彩
祥子は、真っ白な霧の中を歩いていた。
誰もいない。ただモヤモヤと立ち込める霧の中を、何かを求めて歩いて
いた。道がわからない。誰か助けて。私は今何処にいるの?私は生きて
いるの?死んでいるの?何もわからない。
「イヤ〜!!」
祥子は、自分が出した声で目が覚めた。
「お、おい。どうしたんだよ。大丈夫か?」
隣で寝ていた良一が、目をこすりながら心配そうに顔を覗きこんできた。
心臓がドキドキしている。しばらくして祥子は、それが夢だったのだと
気が付いた。
「びっくりしたよ。大きな声出すしさ」
「ゴメン…」
「いや、いいんだけど。何か悪い夢でも見ていたの?」
「わからない。でも、すっごく嫌な夢」
「そうか。可哀想に。でも、大丈夫。俺が隣にいるから。安心して眠ん
なよ。今度は悪い夢見ないように、守ってやるからさ」
「ありがとう」
祥子は良一の腕の中にスッポリと入った。
良一は、そんな祥子の髪の毛を優しく撫でながら言った。
「最近さ、祥子ちょっと疲れているよな。顔色もあまり良くないし。た
まには、お義母さんに頼むとかして、少しは休めよ。俺は今、仕事が大
変な時期だから、なかなか育児も手伝ってやれなくて悪いけど」
「ううん。大丈夫。ありがとう」
祥子の唯一の救いは、夫の良一だった。良一の愛情がある限り、自分は
大丈夫だと思った。
しかし、そう思えたのも、その日までだった。
翌日、良一の帰宅は深夜になった。ここのところ、ずっと付き合いやら
接待やらで、ほとんど毎晩帰宅が深夜になっていたので、祥子は何も思
ってはいなかった。いつのもようにテーブルの上に鍵や財布や携帯を置
きっぱなしにして、良一は上機嫌で浴室に向ったので、祥子はいつもの
ように片付けをしていた、その時だった。
携帯電話が鳴った。
祥子は嫌な予感がして、携帯を見つめた。数秒後メール着信のマークが
灯り、祥子は恐る恐る携帯電話を手に取った。指先が異様に冷たくなる。
そして、大きく深呼吸をすると、今まで一度も開いたことがなかった良
一の携帯電話を開いてみた。画面表示は、真由子の顔だった。祥子は娘
に軽い嫉妬を覚えた。ーどうして私の写真じゃないの?ー
そして、戸惑いながらも受信ボックスをクリックしてみた。祥子の嫌な
予感は的中していた。三浦という名前の下に「今夜もありがとうござい
ました」という文字と、その後ろに真っ赤なハートマークが付けられて
いる。祥子はもう、それ以上開いて読みたいとは思わず、携帯電話をテ
ーブルの上に投げつけた。
祥子は、寝室から自分用の毛布を引っ張り出すと、リビングの電気を消
してソファーの上で毛布をかぶった。
しばらくして、良一が風呂からあがってきた。
「おい、どうしてまだ風呂に入っている間に真っ暗にしちゃうんだよ」
電気がリビングの電気をつけると、祥子がソファーの上で毛布に包まっ
ていた。
「祥子?どうしたの?」
良一は、毛布に包まっている祥子を軽く揺すった。しかし祥子は何も答
なかった。
「何か怒っているの?」
良一が毛布をはがそうとしたが、祥子はガンとして毛布を押さえて顔を
出そうともしなかった。
「ねぇ。そんなところで寝たら風邪引くよ。本当にどうしちゃったんだ
よ」
それでも、祥子は何も言わなかった。
「毎晩、遅いのは悪いと思っているよ。けどさ、仕事なんだし、仕方が
ないだろう。そのぐらいわかってくれよ」
祥子は、三浦朋美からのメールのことを言おうかと思ったが、うまく感
情がまとまらず、毛布の中で悔し涙が溢れるばかりだった。
「おい…。祥子。本当に何をすねているんだよ。おい…」
良一は、再度祥子が被っている毛布をめくろうとした。が、ガンとして
毛布から出てこようとしない祥子に、手を焼いてきた。
「祥子。俺、明日も朝一番から会議だし、今夜は本当に疲れているから
先に寝るよ。明日には機嫌直してくれよな。…おやすみ」
良一はそういうと、リビングの部屋の電気を消して、ドアを閉めた。
祥子は、その夜明け方まで眠ることができなかった。
つづく…