『雨弓のとき』 (6)                天川 彩


「それならまず、ここでお参りしてからにしませんか?」
祥子は、神社の前まで来ているのに、そのままお参りもせず何処へ行く
ことに違和感があった。

「そうか、ここ神社の前だよね。近所に住みながら、ちゃんとここでお
参りしたこと、もしかしたらないかもしれないな」
「え?!こんな近くにいるのに…ですか?」
「半年前に引っ越してきたんだけど。その頃、ちょうど東京の三大花祭
りになっている、えーと何て言ったかな、ほら…根津神社の花の祭りで」
「つつじ祭り」
「そう、その祭には行ってみたけれど、それっきりだな。だけど、神社
って普通さ、お祭りとか初詣の時以外はあんまり行かないじゃない」
「そうですか?」
「あ、行くか。何か願いする時とか…修学旅行とか。昔、受験の時には、
どっかの神社で絵馬も書いたような記憶もあるな」
「それ以外、行かないですか?普通にお参りとか」
「普通にお参り…か。僕はそんなに信心深い方じゃないから。君は、そ
の、普通によくお参りするの?」
「よくって訳でもないですけれど。まぁ、なんというか普通に…です。
ただ私この神社すごく好きで、だから、この近所に住みたいなぁって思
ったんです」
「へぇ、そうなの」
「変ですか?」
「いや、変じゃないと思うけど。僕、そんなことにウトイから。じゃぁ、
やっぱりまずはお参りしようよ」
「はい」

祥子が鳥居の前で小さくお辞儀をして中に入ったので、良一も慌てて同
じようにお辞儀をして中に入った。手水の前でも手馴れた仕草で手と口
をすすぐ祥子の横で、良一はよくわからないまま適当に手を洗い、ひし
ゃくの水を一口飲んで、社殿の前に立った。そして財布から小銭を取り
出しと勢いよく賽銭を投げ込もうとした時、祥子の手が良一の腕を優し
く止めた。
「あ、あのね。昔お婆ちゃんに昔教えてもらったんだけど、賽銭は放り
投げるものではなくって、神様にお供えする気持ちで、そっと入れるも
のなんだって。でね、鈴を鳴らしたら、二回ちゃんとお辞儀をして、そ
の後、二回手をパンパンって叩いて、神様にお祈りするの。お祈りが終
わったら、もう一度、お辞儀するんだって」

良一は、教えられた通りの手順で手を合わせてみたのだが、そもそも神
様にお参りだとか、お祈りというのがよくわからない。更にこれといっ
て今は何も悩み事もなく、取り急ぎのお願い事も見当たらなかった。「
とりあえず、幸せになりますように」とだけ心の中で呟くと、目を開い
た。しかし、祥子はまだ横でじっと祈ったままだった。何をそんなに祈
っているのだろう…と横顔を見た時、祥子がお辞儀をしたかと思うと、
急に目をあけて良一の方を向いた。

「いやだ。そんなに見ないでくださいよ。恥ずかしいですから」
「あ、いや…ごめん。真剣に祈っているなぁと思ってさ。ま、お参りも
済んだし、今日は一日空いているの?」
「はい。特に用事はないです」
「ならさ、新宿や渋谷あたりはどう?お台場とか六本木近辺でもいいし、
表参道でもいいよ。でも、池袋ならそう遠くないか。そうだ、君はどん
な場所が好きなの?」
「私ですか?私はどちらかというと、静かな場所が好きです」
「静かな場所か。じゃ、鎌倉とかもいいか…」
「そうだ。高梨さん、この近所散策したことありますか?」
「え?近所?いや、ほとんどないような…」
「それじゃ、この近くを歩くっていうのはどうですか?」
「でも折角の休みだよ。お天気もいいのに近所じゃもったいないよ」
「だけど、ここを知らない方がもったいないですよ」
「そう?じゃ、今日は近所歩いてみようか」

良一は、新鮮だった。今まで女性と何処かに出かけるといえば、繁華街
での映画や食事、そしてショッピングだった。ひとりで過ごす休日も、
家でCDを聴いたり本を読むか、地下鉄に乗って何処か目的地まで出か
けていくというのが常で、近所を散策するという発想自体がなかった。

「今日はお天気もいいし、谷中の近辺を歩きましょうか。知っていまし
た?谷中と根津と千駄木って近いのに、なんていうのかな…流れている
空気感のようなものが違うんですよ」
「そうなの?」
「言葉でうまく言えないですけれど」

祥子は、車の往来が少ない、お気に入りの路地を歩きながら、自分の知
る限りの道案内をした。良一は、谷中が寺町だということぐらいは知識
で知っていた。しかし、この日歩いて実感した。ここは徳川家の菩提寺
である上野の寛永寺の子院が時代と共に次々と建立され、現在も七十を
越す寺院が所狭しと点在している。良一は近所を毎日のように歩いてい
るはずなのに、まるで別の場所を小旅行をしているような気分になった。


「今日は、とにかく驚いたよ。この辺りは本当に凄い場所だね」
タイムスリップしたかのようなレトロな喫茶店の片隅で、ココアをすす
りながら良一が言うと、我が意を得たりと、向かいの席に座った祥子が
ニッコリ笑った。

「歩かないとわからないですよね」
「確かにそうだね。それに、君にも驚いた」
「え?何がですか?」
「いや、確か二十歳だったよね。僕より八つも若いのに、神社もお寺も
ちゃんとお参りするんだと思って。僕なんか寺と神社の区別も怪しいも
んな。とにかく凄いなと思ってさ」
「そうですか?自分ではよくわからないです」
「いや。僕のまわりには、少なくとも君のようなタイプの女の子いない
よ」
「私、お婆ちゃん子だったから」
「お婆さんは、いくつなの?」
「中学一年の時に亡くなったので…でも、それまでは、私の母親みたい
な存在で、とにかく一番大切な存在でした」
「そうか。それじゃ、そのお婆さんに色々教えてもらったんだ」
「私の母は、ずっと仕事ばかりだったので」

祥子の顔色が曇ったことを察知して、良一は話題を変えた。
「そうそう、君の下の名前、ショウコさんだったよね」
「はい」
「どんな字?」
「吉祥天のショウの字です」
「キッショウテン?」
「う〜ん…じゃ、吉祥寺のジョウ。衣辺に羊です。良いことがあるとい
う意味らしいんです。でも、今のところはあんまり…」
「いい名前じゃない。祥子と書いて良いことがある子ならいいよ。僕な
んかモロ、良いこと一番!って感じの良一だもんな」
「でも、なんとなく似ていますね」
「本当だね。苗字も似ているし…ね」
「そうですね」
「それじゃ、親しみを込めて祥子ちゃんて呼んでもいいかな」
「…」
「ちょっと、馴れ馴れしかったたかな」
「いえ…でも…」
「じゃ、これからも高原さんの方がいいかな」
「これからですか?」
祥子は急に顔が赤らんだ。これからも、会えるのかと思うとドキドキし
た。
「凄いご近所さんだしさ、よかったらまた今度も案内してよ」
「あ、はい…」
「やっぱり祥子ちゃんて呼んだらダメ?高原さんより呼びやすいんだけ
ど」

勿論、嫌ではなかった。普段は母親からも友人たちからも「祥子」と呼
び捨てにされていたので、祥子ちゃん、などと呼んでくれる存在は初め
てだった。
「じゃ、それで…」

その後、良一は何か考え事をしているようで、しばらく言葉が途切れて
いた。そして次の言葉は祥子の予想外の言葉だった。

「あのさ、祥子ちゃんて、誰か付き合っている人とかいるの?」
不意打ちの質問に、祥子の心臓は破裂しそうなぐらいドキドキした。
「えっ?は、い、いや…ないです」
「そうなんだ」
祥子はその後、どんな言葉が続くのか期待しながらしばらく待っていた。
が、それ以上良一から続く言葉はなかった。
「あの…高原さんは?」
耳まで赤くなりながら、祥子も思い切って質問してみた。
「僕は、半年前に振られちゃってね。本当はその彼女と結婚しようと思
っていたんだ。だから、それまで住んでいたマンションも引越す準備し
ていたんだ。でも結局、何だかんだ最後にゴタゴタこじれちゃってさ…。
心機一転、新たな場所に引っ越そうと思って、引っ越してきたんだ」
「そうだったんですか」
「だけどさ、今日改めて自分が素晴らしい所に住んでいるんだって実感
できたよ。君に…あ、いや祥子ちゃんに色々案内してもらったお陰だね」
「いえ、そんな…」
「これからも、いろいろ教えてよ」
「あ、私でよければ」
「実はさ、今日ビックリしたことのもう一つにね」
「はい」
「いや、なんて言うのかな。自分の知らない部分を新たに知ったという
か…」
「別の部分ですか?」
「うん。そう。言葉にするのが難しいんだけど」
「えぇ…」
「僕も、こんな古きよき日本というかさ、懐かしい風景が実は大好きな
んだなって感じたよ。いいよね。やっぱり、ホッとできる感じとかさ」
「私もそう思います。だから、それを感じられる所に住んでいるんだっ
て思えたら嬉しくって」
「祥子ちゃん、今日はありがとう」
「い、いえ。私の方こそ、ありがとうございました。それから、いろい
ろご馳走になっちゃって」

この日、ココアを飲む前に蕎麦を食べたり煎餅を買ったりしたのだが、
全て良一が払っていた。
「そんな、それぐらい構わないよ。僕も凄く楽しかったんだし。そうだ。
君の…あ、いや違った。祥子ちゃんの電話番号って教えてもらっていい
かな」
祥子は、ペーパーナプキンに自分の携帯番号を書いて渡した。



祥子が部屋に戻ると、日はかなり傾きかけていた。祥子は少し冷たくな
った布団を取り込み、すっかり乾いたシーツや他の洗濯物も部屋の中に
取り込むと、祥子はそこにバタンと倒れこんでみた。まだ、微かに太陽
の匂いが残っている。布団に顔を埋めて、今日の時間を振り返りながら、
顔がニヤつくのを抑えられなかった。

ー私は今、恋をしているー

祥子は別にもてなかった訳ではない。小学生六年生の時、そして中学二
年の時にも、同級生の男の子から告白されたことはある。高校一年の時
には、告白してくれた男の子に少しは好意を抱いていた。が、結局、自
分の心にブレーキをかけて、誰のことも本気で好きになれないまま二十
歳になっていた。でも、この日、しっかりと自覚した。台所の隣にかか
っている鏡が夕日を部屋の中に取り込んでいた。祥子はその鏡で、自分
のニヤついている顔を見たくなった。布団から立ち上がって、鏡の前に
立った時だった。
プルルルル…。プルルルル…。携帯が鳴った。

祥子は、口から飛び出しそうになる心臓を抑えながら電話を取った。が
…受話器の奥から聞こえてきたのは耳慣れた声だった。

                  つづく…