『雨弓のとき』 (58)
                天川 彩

興奮して家を飛び出した祥子は、駅まで来て、何処に行こうか迷い始め
た。これといってあてがあって出たわけではない。
地下鉄の券売機の前で、しばらく考えていると、後ろで待っている人が
イライラしている気配を背中で感じた。祥子は切符を買うことをやめて、
今、降りたばかりの階段を再び昇って地上に出た。

祥子の足は、自然と根津神社の方に向っていた。
大きな鳥居の前で立ち止まり、一礼すると、ふわりと春の風が吹いた。
祥子は、神聖な気持ちになったが、同時に自分の荒んだ心持が無性に悲
しくなった。

神社の中では、休日を楽しむ親子連れやカップルが幸せそうに時を過ご
していた。

祥子は、できるだけ視界にいれないよう、足早に真っ直ぐ進み、手水で
手と口を清めると、社殿の前で拍手を打って手を合わせた。
しかし、何を祈っていいのか、自分でもわからなくなり、両手を合わせ
たまま、しばらくうな垂れていた。

突然、誰かが肩をポンと叩いたので、祥子は驚いてビクンとなったが
「やっぱりここだった」と、聞き慣れた声が続いたので振り向いた。

後ろに、真由子を抱いた良一が立っていた。

真由子は、祥子の顔を見た途端「ママ〜」と、小さな両手を目一杯伸ば
して、抱っこをせがんだ。祥子は真由子を受け取り、慣れた手つきで易
々と抱き上げた。

祥子は、素直に嬉しかった。
しかし、それを悟られまいと、わざと祥子は怒っているフリをして、何
も言わずに神社の敷地から足早に出た。

真由子は、リズミカルに揺れるのが楽しいのか、祥子の肩越しに顔を覗
かせては、キャッキャとはしゃいでいた。
「お、おい。待てよ。あぶないだろ。真由子抱いているんだから。止ま
れって」
良一の声で、祥子は止まり、そして良一の方を向いた。

「あのさ。私、怒っているんだから」

良一は弱りきった顔をして、ため息をつきながら、
「絶対、祥子誤解しているって。ミウラは、部下だけど、何もあるわけ
ないだろう」と言った。
「そんなこと言ったって…車の中に書類って何よ!」

「確かに、昨日は急に夜行く、取引先のところに商品を届けなければな
らないことになって、社用車も全て出払っていたしで、ミウラが結構近
くに住んでいて、車も持っているから、頼んで車出してもらったんだけ
ど、ただそれだけだって。きっと書類忘れていること、伝えようと電話
くれたんだと思うんだけどさ」
「そんな感じじゃなかった」
「そんな感じも、こんな感じもさぁ…。何にもないし」
「リョウイチサン…なんて言ってたし」
「本当にどうしようもない奴だな。あいつ、時々悪ふざけするからさ
会社に行ったら、ちゃんと言っておくから」
「家に電話しないでって伝えてくれる?あ、携帯も嫌」
「嫌って言ったって、仕事の連絡は携帯だしなぁ…」
「そんなの会社で言えばいいじゃない」
「出先とか多いし、そういうわけにもいかないし。けど、本当に祥子が
心配するようなこと、絶対ないからさ」

「ホント?」
祥子は上目使いで良一を見上げた。
「ホント」
良一は、祥子の頭を優しくポンポンと軽く撫でた。

「さぁ、機嫌直してさ。今日は、天気もいいし、このまま上野公園ま
で散歩でもするか」
良一は、ほっとしたように大きく息を吸い込んだ。

「そうね。けど…真由子のトレーニングパンツ持ってきた?」
「トレパンだか何だかしらないけれど、俺、そのパンツわからないって

「それじゃマズイわ。まずは家に戻って、ちゃんと準備して、それから
お散歩に出かけようか」
「そうだな」

祥子は、良一のことを少しでも疑った自分がバカだったな、とこの時は
思った。

                           つづく…