『雨弓のとき』 (57) 天川 彩
祥子は、しばらく電話機を意味も無く見つめていた。
そこに半分目を閉じた状態で頭をかきむしり、大きなアクビをしながら
良一が寝室から出てきた。
「何?誰から?」
そのあまりに緊張感の無い、のんびりとした良一の口調がなぜか祥子は、
無性に腹がたった。
「誰って?思いあたる人いるんじゃないの?」
「??」
良一は、祥子が何を言っているのか、わからず、目をパチパチとさせた。
そんな良一を無視して、祥子は台所に向かった。そしてコンロに再び火
をつけて、途中になっていた朝食の続きを作り始めた。フライパンがガ
ジャガジャと必要以上の音を立てている。
良一は、何が起こったのか訳がわからず、慌てて、台所に入ってきた。
「何?どうしたんだよ。何をそんなにイライラしているんだよ…。誰と
喋っていたんだよ、今」
祥子は、さっきまで電話口で聞いていた三浦朋美の鼻にかかった、甘っ
たれた声を思い出した。すると益々腹がたってきて、わざと大きな声で
「はぁ〜」とため息をついた。そんな祥子の顔を、良一は心配そうに覗
きこんだ。
「ちょっと、邪魔だからあっち行っててよ!!」
「邪魔ってことないだろ。こっちは何かあったんじゃないかって心配し
ているのに」
しかし、祥子は無視した。その態度に、いつもは穏便な良一も流石に腹
がたってきた。
「おい祥子!どうしたんだよ。朝っぱらから気分悪いな!」
「朝っぱらからって、イライラさせるような原因、あなたが作っている
んでしょ!自分の胸に手をあててみなさいよ!」
良一は、その祥子の言葉で、今の電話の相手が怒りの原因になっている
ことだけはわかり、少し冷静さを取り戻した。
「今の電話は誰だったの?何言われたの?どうして、そんなに怒ってい
るの?」
祥子は、ゆっくりと良一の方を向くと、さっきまでの口調とはガラッと
変わり100%嫌味な感情を上乗せした口調で言った。
「今の電話?あなたと、随分親しくお付き合いをされていらっしゃる方
からでしたわ。毎日、携帯で個人的に連絡取り合っていらっしゃる会社
の方のようよ。お電話待っていらっしゃるんじゃないかしら?携帯に連
絡入れて差し上げたらどうかしら?」
「え??誰、何それ?」
良一はキョトンとして言った。
「そうそう。夕べ、その方の車の中にあなた書類を忘れたそうよ」
「えっ?書類??…車の中??あ、もしかして…電話ってミウラって女
性からだった?」
「そう。ミ・ウ・ラ・ト・モ・ミ・さん」
「えっ?あれ??あ…そうか。そうだよな。祥子もミウラのこと知って
いるんだよな」
「知っているって…」
「アイツ何て?」
「リョウイチさんに電話くれるように伝えてって。リ・ョ・ウ・イ・チ
さんにって、苗字じゃなくあなたの名前言っていたわよ」
「何で?何でミウラが俺のことを、名前で呼ぶの?」
「そんなの、私知るわけないでしょ!…そうだ。もうすぐ真由子起きる
から、真由子と朝ごはん二人で食べてね。私、今日は出かけるから!」
そういうと祥子はエプロンをさっさと外し、良一の腕の中に放り込み、
寝室に入ると、ドアを思い切りバタン!と閉めた。
台所に取り残された良一は、何が何だか、さっぱり意味がわからなかっ
た。仕方がなく、食卓テーブルの上に置いてあった新聞を開いた。が、
新聞の上を目がなぞるだけで、内容はさっぱり読めないままだった。
ほどなくして、普段、あまり見たことがないような服に着替え、メイク
をバッチリほどこした祥子が、パジャマ姿の真由子の手を引きながら、
寝室から出てきた。真由子は、お気に入りのうさぎのぬいぐるみを片手
で掴んだまま、まだ半分眠っているような状態だった。
祥子は真由子の手を良一に握らせた。真由子は、良一の顔を見ると無邪
気に「パパ〜」と嬉しそうに呼んだ。
祥子は、しゃがんで真由子の顔を見ると「マユちゃん。ママね、お出掛
けしてくるから、パパといい子でお留守番しいるんですよ」と言った。
真由子はウサギのぬいぐるみを持った手を高くあげて「はーい」と可愛
く返事をした。
祥子はそんな真由子の頭を撫でると、玄関に向った。
「あ…そうだ。真由子トイレットトレーニング中だから、日中はオムツ
外して、トレーニングパンツはかせてね。それから、こまめにお手洗い
に連れていってあげてね。それじゃ、私、行くから」
滅多に履かないヒールの高い靴を下駄箱から選びながら祥子が言った。
「お、おい。行くって…何処に行くんだよ。俺、トレーニングなんだか
なんて知らないぞ。それよりあのさ、お前絶対誤解していると思うんだ
けどさ…」
玄関まで追いかけてきた良一の言葉を無視するように、祥子は、
「トレーニングパンツは、真由子のタンスの一番下の引き出しに入って
いますから」と言い残すと、さっさと玄関から出た。
つづく…