『雨弓のとき』 (56) 天川 彩
季節が巡り春になる頃、真由子は、一歳半になっていた。
真由子は日に日に可愛さを増していった。母の敏子は、何かにつけよく
訪ねてくるようになった。
祥子にとっては、真由子を預けて、一人で買い物に出ることが出来たの
でありがたくもあった。が、本当のところ、複雑な感情が祥子の中で渦
巻いていた。母が真由子に愛がこもった顔を向ければ向けるほど、自分
が子どもの頃、そんな顔を向けてくれたことはなかったと心が呟くのだ。
しかし、ようやく長年のわだかまりが解けたのだ。今になって自分の感
情を母にぶつけて、再び疎遠になるのは避けたかった。
良一の帰りは、益々遅くなり、出張も度重なるようになっていた。たま
の休日も、よほど日頃の疲れが溜っているのか、良一は昼過ぎまで寝て
いることが多くなっていた。祥子にすると、不満は募っていた。が、真
由子と自分を支える為に、頑張ってくれているのだから、と自分の心に
いつも言い聞かせていた。
そんな、ある土曜日の朝のことだった。祥子が朝ごはんを作っている時、
電話が鳴った。祥子は慌ててガスの火を止めて、受話器を取った。
「はい、高梨ですが」
「高梨課長は、起きていらっしゃいますか?」
電話の声の主は、やや甲高い声で早口に言った。
「すみません。夕べ遅かったので、まだ休んでいるんですが。あの、会
社の方ですよね?急用でしたら今、起こしますが」
「いや…急用というほどのことでは…。ただ、課長、月曜日の朝一番の
会議に使う資料を私の車の中に置き忘れているので」
「…。そうですか。主人が起きたら電話させますので、どちら様で…」
「後から、携帯にかけるからいいわ。それより、お元気そうね」
「は?あの…どちら様ですか?」
「三浦です」
「三浦さん?」
「三浦朋美」
「!!!」
祥子は、息が止まった。
電話の主は、最も話したくない相手、三浦朋美だった。
「ねぇ、思い出してくれた?随分、ご無沙汰しているわね。といっても
あなたのご主人、高梨課長、いやリョウイチさんとは、毎日顔を合わせ
ているけれど」
「…」
「ねぇ聞えてる?あなた、覚えている?私のこと」
「…」
「何とか言ってよ。私は恋のキューピットなんだから、あなたに少しは
感謝されてもいい存在だと思うけど」
「あの主人が起きたら電話させますから。電話番号教えてください」
「あら、知っているわよ。毎日、携帯でやりとりしているんだから。そ
れじゃ、起きたら電話してもらえるように伝えて」
「失礼します」
祥子は、精一杯頑張って、冷静な声で電話を切った。が、受話器を握り
締めている手が震えていた。
祥子は自分の血という血がずべて逆流しているのではないかと思うほど
体中がザワザワとしてきた。