『雨弓のとき』 (55)                天川 彩


明日香からの電話を切ると、祥子は無性にイライラしていた。
まだ泣いている真由子をベビーベッドに無理やり寝かせると、寝室のド
アをバタンと閉めた。
ドアの向うから、真由子の泣き声がこもった声で漏れてくる。祥子は耳
を塞ぎ、ドアにもたれかかってしゃがんだ。
親友の就職は喜ばしいはずなのに、素直に喜べない自分がいる。真由子
の泣き声が、まだ漏れ聞える。
「あー、うるさい!!」
祥子は、ドアに向って大声で怒鳴った。
まだ、言葉もわかるはずのない真由子の泣き声が一瞬、止まったように
感じた。祥子は自分の怒鳴り声と共に、真由子の些細な気配の変化を感
じとり、ハッと我に返ってドアを慌てて開いた。

真由子は顔を真っ赤に、汗と涙でグチャグチャにしながら、力の限り泣
いていた。祥子は真由子を抱きあげると、小さく軟らかく甘い匂いのす
る娘の胸に顔を押し付けた。
「ご、ごめんね。真由子。こんなに可愛いのにね」
真由子は、母親に抱かれて安心したのか、ヒクヒクと泣きじゃくりなが
ら、やがて祥子の腕の中で小さな寝息を立て始めた。
今度は、そっと起こさないよう、静かに真由子をベビーベッドに寝かし
つけた。そして祥子自身も、隣の自分達のベッドの上に寝転んだ。

ー私は、いったいどうしたっていうの?何が不満なの?ー

祥子は、自分の心に問いかけてみた。が、何一つ返答がくるわけではな
い。ただ、自分の未来が途中で途切れた空しさだけが、カラカラと乾い
た音を立てて胸の中を廻っているようだった。しかし、その音を吹っ切
るように、ガバッと体を起こした。
そして、祥子は決めた。
ーこの家庭を守るためだけに自分は生きよう。そうだ、それがいいに決
まっている。私は妻であり、母なのだー

祥子はその日、いつも以上に手の込んだ料理を作り、良一の帰りを待っ
た。ただ、愛する夫を喜ばせたい一心で。しかし、良一が家に帰って来
たのは午前1時を過ぎていた。
「あれ?まだ起きていた?先に寝ててってメール入れたんだけど。ゴメ
ン。悪かったね。またしても、トラブル発生。本当に参ったよ。だけど、
俺が責任者だし。みんなも頑張っているのに、帰れないしさ。ようやく
片付いて、みんなにメシ奢ってさ」
良一は、背広を脱ぎ、ネクタイを緩めながら、大きく背中で息をしてい
た。祥子は、そんな良一の背中に、そっと抱きついた。アルコールとタ
バコが交じり合った臭いがする。その臭いはあきらかに、祥子が好きな
良一の匂いとは異なっていた。
「タバコ吸った?」
「まさか。嫌、俺吸わないし。あぁ。居酒屋かなりタバコ臭かったから
な」
「今日、良一さんが好きなクリームコロッケとロールキャベツのスープ
作ったんだけど、ちょっとだけでも食べない?」
「悪い。ちょっと今日は胃がもたれているかな。明日の朝、食べていく
からさ」

そういうと、良一は風呂場にさっさと向った。

                           つづく…