『雨弓のとき』 (54)                天川 彩


翌年1月末、札幌の店舗が無事グランドオープンを迎えた。地元のメディ
アでも多数取り上げられ、店はかなりの賑わいをみせていた。無事、新
たな店舗が船出したのを見届けて、良一は東京本社に戻って来た。
祥子にとっても、どれほど待ち望んでいたかわからない、良一の帰京だ
ったが、その日から、なんとお得意先の接待が待ち受けていた。
良一が家に戻って来た時には、祥子は、食卓に、突っ伏したまま眠って
いた。多分、張り切って用意したのだろう。台所には、ラップがかけら
れた鉢やら皿が、幾つもある。

「ごめんよ、祥子」
良一は、小さく呟いて、祥子の頭を後ろから撫でた。すると祥子の体が
ビクンと反応して、起きた。
「あ、おかえりなさい…。ん?今、何時?」
祥子は、少し寝ぼけた眼で、壁にかかっている時計を見た。時計の針は
午前二時を廻っているようだった。
「今日、戻って来たばかりなのに…。疲れたでしょ。大変だったね」
「いや。本当に悪かった。まさか、今日、海外のバイヤーが、急遽予定
を変更して、やって来るなんて思ってもいなかったからさ。俺が担当し
ている相手だし、接待に出ないわけに、いかなくって。本当に、こんな
日に遅くなってごめん。明日は早く帰れると思うよ」

しかし、その翌日も、またその翌日も、良一の帰りは遅かった。
ようやく迎えた休日、良一はドロのように夕方まで眠っていた。そんな
日々が次第に繰り返されるようになり、祥子の中に不平不満の渦が巻い
てくるのを感じていた。
しかし、祥子の内面の葛藤とは反比例するかのように、良一は出世街道
をまっしぐらに進んでいた。特に、札幌での業績が高く評価され、次の
大型プロジェクトのリーダーに大抜擢されたのだ。

良一も、徐々に、仕事に燃える男のリズムで暮し始めていた。

そんなある日、真由子のオムツを交換している時に、電話が鳴った。電
話の主は、大学時代の大親友、明日香だった。

「もしもし祥子。今大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ。真由子のオムツ替えているんだから」
「そうか、ごめん。じゃ、またかけ直す?」
祥子は、受話器を肩と耳で挟んだまま、素早くオムツを交換すると、真
由子を抱き上げた。そして改めて受話器をしっかり握り直した。
「ごめん。もう大丈夫だよ。それにしても久しぶりだよね」
「そうかな。確かに真由ちゃんが生まれた直後ぐらいに会ったきりだも
んね」
「どうした?」
祥子は、久しぶりの女友達からの電話に、気持ちも弾んだ。
「いや…祥子に、真っ先に報告したいなって思って」
「報告?」
「うん!実はさ、第一志望だった広告代理店から、内定もらったんだ」
「え〜!第一志望って、もしかして、博電社?」
「まぁ…」
「それって、快挙だよ。すごいよ」
祥子が急に大きな声を出したので、抱いていた真由子が驚いて泣いた。
「あ、真由子ちゃんの声だ。いいね。赤ちゃんの声って」
その時、明日香は素直な気持ちからその言葉を口にしたのだが、祥子は
、少し複雑な気持ちになった。
「そう?本気でそう思う?私はやっぱり、明日香が羨ましいな」
「え〜。だって、祥子は真由子ちゃんのお母さんになったんだし。仕事
よりもっと大事なものあるじゃない」

明日香との間に、微妙な距離というものを初めて感じていた。

                         つづく…