『雨弓のとき』 (53) 天川 彩
「ただいま」
良一の優しく甘い声で、祥子は目を覚ました。不意打ちのように、大好
きな良一の顔が目の前にあったので、心臓がドキンと鳴った。
「あ、ごめんなさい。さっきまで起きていたのに。今、準備するね」
慌ててベッドから起きようとすると、良一が肩を抑え、おでこに手をあ
てた。
「熱はないみたいだけど、まだ本調子じゃないんだし。起きなくていい
よ。それより何か冷たい飲み物とか持ってこようか」
祥子は「何もいらない」と言いながら、やはり腰だけは起こしてベッド
の上に座った。抗生物質が効いたのか、祥子のインフルエンザの具合は、
日に日によくなっていた。体のだるさを除けば、ほとんど治ったといっ
てもいい。
良一の目が真由子の空になっているベッドに向いた。祥子は夫の視線を
察知して、愛娘とすぐに会わせてあげられない申し訳なさを感じた。
「あ、明日には、真由子連れてきてくれるって。もう、私もほぼ大丈夫
だし」
「今回は越谷のお母さんに助けられたよな。仕事だってかなり長い間休
んでくれたんだろ?」
「まあね。でも、私が子どもの頃、熱出したって会社を休んでくれたこ
となんか、一度もなかったんだけどな。やっぱり孫って可愛いのかな」
「そんな言い方しちゃダメだよ。第一、祥子が子どもの頃は、お婆ちゃ
んがちゃんと面倒みてくれていたんだろ。みんなそんなもんだよ」
「そんなもん?」
「祥子のところは、お母さんが家計を一人で面倒みていたようなものだ
ったんだから、仕事休むわけにはいかなかったんだよ。お婆ちゃんも、
祥子も、お母さん一人で支えていたんだろ」
「そうか…」
「俺だって、ずっと傍にいてやりたいけれど、俺が今、祥子も真由子も
生活支えているんだし、会社をそうそう休む訳にはいかないだろ」
「でも、今日はこうして帰ってきてくれた」
「そりゃ、大切な奥さんのこと、離れていたら心配だしね」
「ありがとう」
良一は、祥子の顔を見つめると強く抱きしめた。そして、祥子の唇にキ
スをしようとした。が、祥子に外されてしまった。
「どうしたの?」
「ダメ。まだちゃんとは治っていないから」
「大丈夫だって。予防接種してきたし」
「でも、やぱり今はダメ」
「なんで?」
「だって、夫の健康管理は妻の仕事だから」
祥子はそういうと、クスッと笑った。
「え〜?健康管理?」
「そう。健康管理。…というわけで、そっちは、まだちょっとお預けだ
けど、ご飯にしない?クリスマスだし、今日もちょっとだけ頑張って作
ったの」
と言うや否や、ベッドから元気よく飛び出した。
「おいおい。病人がダメだって」
良一の言葉も聞かず、パジャマの上にフリースをさっさと着込んで、祥
子は台所で鼻歌交じりに準備し始めた。
祥子は、テーブルの準備をしながら、一年前のクリスマスの日のことを
思い出していた。あっという間の一年だったが、あまりにも激変した一
年でもあった。女子大生だったはずの祥子が良一の妻となり、真由子と
いう子どもの母親になっている。
人生は、自分の想像外のところで、大きく動いていくのだと、この時、
漠然と感じていた。
まさか、その翌年、自分の人生に大事件が起こるとは、この時、知る由
もなく…。
つづく…