『雨弓のとき』 (52)                天川 彩



母の敏子が真由子を連れて出た後、祥子は良一の携帯に電話をかけた。

良一に、病気で行けなくなったことや、真由子とも離れなければなら
ないことを伝えたら、多分泣くだろうと予想していた。が、実際には
淡々と告げていた。

「そうか…。残念だけど、インフルエンザなら仕方がないし。真由子
もお義母さんが面倒見てくれるっていうんだから、この際、しっかり
寝て、早く治さないと」

良一の声が遠く小さく聞える。話しながらも祥子の節々は痛み、頭は
ぼんやりとしていた。
「もしもし…祥子、聞こえている?」
「あ、ごめん…。なんだか凄く体が熱いから、もう電話切るね」
祥子の頬に涙が伝った。

きっと、私、辛いんだ…。自分が流す涙でそう感じながらも、高熱は、
辛いとか哀しい、という感情まで封じ込めているかのようだった。
祥子は、そのまま倒れこむようにしてベッドに潜り込んだ。

目を覚ますと、外はすっかり暗くなっていた。何時間眠っていたのか
祥子自身、わからないほど長い間眠り続けていたようだ。祥子はいつ
もの癖で、ベッドの横に置いてあるベビーベッドの柵に手を入れて、
真由子の体を触ろうとした。
?…。!!。祥子は慌てて上半身を起こして電気を付けた。
真由子のベッドが空になっている!
薄ぼんやりとしながらも、パニックを起こしそうになっている頭で、
祥子は懸命に考えた。母の敏子がやって来て、インフルエンザをうつ
さないようにと、越谷の実家に連れて行ったことを思い出すのに、し
ばらく時間がかかった。

タンスの隣に張ってあるカレンダーが目に入った。赤ペンで花丸印が
ついている。嬉しそうに、その花丸印が踊っている日に、祥子は真由
子を連れて、良一がいる札幌へ行くはずだった。
喉が異様に腫れて痛い。口の中に溜った唾を飲み込みながら、自分の
現実も飲み込むしかないのだと思ったら、祥子は力が抜けていくよう
だった。

祥子は、再び良一に電話をかけてみた。が、仕事中なのか繋がらない。
良一の声が聞きたい。真由子のまだ言葉にならぬ声が聞きたい。
しかし、いつもは聞えることもない時計の針の音だけが、ただ部屋の
中で大きく響いていた。

心細さと哀しさと高熱とが入り混じった祥子の体は、ガタガタと震え
ていた。祥子は毛布を頭からすっぽりと被り擦れた声で大声で泣いた。
今まで流した涙の中で、一番熱い涙が、止め処なく流れ落ちていく。
やがて毛布の中で、涙に混じり汗も玉のように流れ出し、祥子は息苦
しくなって顔を出した。

新鮮な空気を吸い込んだからだろうか。祥子の気持ちは、不思議なほ
どスッキリとしていた。

祥子は起き上がり、新しいパジャマに着替え直すと、寝室を出てキッ
チンに向った。顔を洗い、敏子が用意してくれていたお粥をゆっくり
食べ、処方されてた薬を飲み終えた時、携帯が鳴った。
良一からだった。

「さっきは会議中で出れなくてゴメン。熱とか大丈夫?」
「ありがとう。ちょっと声が聞きたかっただけだったの。さっき、母
が作っておいてくれたお粥食べて、薬も飲んだし。早く治さなきゃね」
「そうか。よかった。具合が酷くなったんじゃないかと思って心配し
たよ。でも、少し安心した。俺、週末、そっちに戻れそうだから」
「えっ?」
「いや、さっき会議中に事情を話してお願いしてみたら、結構アッサ
リOK出してもらえてさ」
「でも、インフルエンザだし、うつしちゃったら大変だし」
「予防接種打つしさ、心配いらないから」
「…」
「もしもし、祥子?聞えている?」

祥子の頬に、再び熱い涙が伝った。

                        つづく…