『雨弓のとき』 (50) 天川 彩
札幌に行くことを決めた祥子だったが、真由子はまだ生後二ヶ月。首も
座っていない娘を飛行機に乗せてもいいものかと迷ったが、航空会社に
問い合わせると、心配はないとの返答で、祥子の胸は躍った。
出発まで一週間と迫ったある日、祥子は、初めて真由子を母の敏子に預
けて新宿のデパートまで出かけた。
週末の百貨店は、クリスマスのプレゼントを買いに来ている人々で、酷
く混みあっていた。
あれこれ迷った末に、北国札幌で冬を過ごす良一へ、帽子とマフラーを
選んだ。そして帰り際、数ヶ月ぶりに、千駄木の喫茶店に立ち寄った。
扉を開けると、いつものようにマスターが奥のカウンターでコーヒーを
ゆっくり淹れているところだった。運よく、お気に入りの席が空いてい
る。祥子は、迷わずその席まで行くと、椅子に深く腰掛けた。体の奥か
ら、ドッと開放感が湧き上がってくるような、そんな気がした。
「あれ、随分久しぶりだね。今日は旦那さんは?」
マスターが水を運んできながら、前と変わらぬ笑顔を向けてきた。
「札幌に長期出張していて」
「そうか。じゃ寂しいね」
「そうでもないかな」
「喧嘩でもしているの?」
「まさか。そうじゃなくて、来週、私も札幌に行くんです」
「へぇ。じゃ、クリスマスはロマンチックに札幌で二人仲良く、ホワイ
トクリスマス過ごすのかな」
「二人じゃなくて、娘も」
「えっ?娘って?あ、そうか。そういえば前に来てくれた時、ちょっと
お腹大きいのかなぁなんて思っていたんだけど、そうか。もうお母さん
になったんだ。今日は赤ちゃんは?」
「母に初めてお願いして」
「そうか。そんな日も必要だからね。で、注文何にする?」
「えっと…ホットミルクください」
「ホットミルクね。そういえば、去年だったよね。旦那さんがホットミ
ルクで舌を火傷しながらさ…」
「嫌だ、マスター。そんなこと覚えていたんですか?」
「なんつーか、いい光景だったな。そんな二人が、早くもパパとママだ
もんな」
しばらくして運ばれてきたホットミルクを一口飲んだら、途端に胸が張
ってきた。ふと真由子が起きて泣いているような気して落ち着かなくな
ってきた。祥子は火傷しないように注意しながらホットミルクを飲み干
すと、早々に店を出た。そして自分も母親になってきていると初めて実
感していた。
家に戻ると、案の定、真由子が泣いていた。母の敏子が哺乳瓶でミルク
を飲ませようとしていたが、なかなか飲まずぐずっているところだった。
「あ、よかった。真由子がずっと泣いていてどうしようかと思ったわ」
「ごめんね」
祥子は直に着替えて手を洗い、真由子を抱きかかえると、熱く張って
いた乳を真由子にふくませた。
次の日早朝、喉の痛みで祥子は目が覚めた。
何度かうがいをしてベッドに戻り、眠ったのだが、今度は咳で目が覚め
た。
昨日のデパートかな…。風邪の人多かったみたいだし…。
救急箱に手を伸ばし、風邪薬を飲もうとした。が、真由子に与えている
乳に、薬の成分が混じるような気がして、その手を引っ込めた。
つづく…