『雨弓のとき』 (5)                天川 彩


約束の土曜日は、あっという間にやってきた。約束は午前十時。家から
神社まで、ゆっくり歩いても十分もかからないというのに、祥子は五時
半には目が覚めてしまった。いくら目を閉じても眠れない。祥子は思い
切って布団から飛び起き、窓を全開にした。やや冷ややかな風が部屋を
通り抜けていく。薄っすらと明るみを帯びて行く東の空。早起きの鳥た
ちが、木々に集って楽しそうに喋っている。朝を、こんな気持ちで迎え
たのは、何年ぶりだろう…。

祥子は、熱く濃いめに煎れたコーヒーをゆっくり飲み干すと布団からシ
ーツや枕カバーを勢いよくはがし、さっきまで着ていたパジャマと共に
洗濯機に入れた。そして、普段洗っていないような、薄手のカーテンま
で洗い終えると、干し竿めいっぱいに広げて、ありったけの洗濯物を干
した。そして最後に一番太陽の当たるベランダの角に布団も干した。更
に部屋の掃除を隅々までしても、まだ時間を持て余していた。が、いざ
出かける直前になって、急にその日の服装が気になり始め、結局、あれ
これ迷っているうちに、約束の時間ギリギリになってしまい、祥子は大
慌てで玄関を飛び出した。

根津神社。その歴史は古い。今からおよそ千九百年前、日本武尊(ヤマ
トタケルノミコト)が東征の折に千駄木の地に素盞鳴尊(スサノオノミ
コト)を創祀したのが始まりとされ、文明年間には太田道灌が社殿を再
興。現在の地に社殿が奉建されたのは、今からおよそ三百年前、五代将
軍・徳川家綱が世継に定まった折に、千駄木の旧社地から御遷座したと
いう。往来の激しい幹線道路から、ほんの一本奥まった道に入ると、立
派な鳥居が現れる。閑静な境内の奥には、国指定重要文化財にもなって
いる江戸屈指の荘厳な社殿が、今も堂々とした姿でご祭神を守っている。

祥子は、この神社の歴史もご祭神も、詳しいことは何一つ知らなかった。
しかし、この神社に来るたび、祥子は心がスーっとするような気がして
いた。

祥子の母、敏子は祥子が物心つくころから働き始めていた。当時、離婚
すらしてはいなかったが、他所の女性の所で暮らしていた父親は、多分、
家計費などほとんど家に入れていなかったのだろう。祥子が小学校にあ
がってからは、休日にも出勤する日が多くなっていた。そんな日は、決
まって近所に住む祖母の家で過ごすのが日課となっていた。祥子は世界
で一番この祖母が好きだった。しかし、信心深い祖母は、お天気がよい
日には決まってあちらの神社だ、こちらのお寺だとお参りに行き、幼い
祥子にとってはそれが少し苦痛でもあった。

小学校ニ年生のある日のこと。いつものように祖母に連れられて電車に
乗り、古くて大きな神社へ向かった。いつものようにツマラナイ気持ち
の祥子だったが、参道で不意に祖母が金太郎飴を買い、祥子の小さな口
に一粒放り込んでくれた。甘く広がる幸せな感覚…。祥子の脳裏にこの
神社の記憶だけは鮮明に残った。

それから十年後の高校二年の冬の日の午後。たまたま開いた雑誌の片隅
に、根津神社の紹介記事が載っていた。立派な楼門や特徴のある透塀、
社殿横に咲く梅の花、そして金太郎飴屋…。既に、祖母は他界していた
ので、小学生の時のあの記憶に残っている神社が根津神社なのかどうか
確かめる術はなかったが、祥子は衝動的に、その日どうしてもその神社
へ行ってみたくなった。

地下鉄を乗り継ぎ、改札の階段を上りきると、小雪がチラついていた。
交差点に立つ丸い時計は、四時を少しまわったところだった。標識に沿
って歩くと、意外なほど直にそこに辿り着いた。社殿の前には誰一人い
ない。祥子は、昔さんざん祖母から教わった通り、ゆっくりと二礼二拍
手をして神殿に手を合わせた。すると、どこからか急に熱い思いが込上
げて、みるみる涙が溢れ出てきた。死んだ祖母のことを急に思い出した
わけでも、特別に何かが起こったわけでもない。ただ、心の深い部分に
固まっていた、何かの固まりが涙となって溶けていくような不思議な感
覚だった。

周りに人がいないことが幸いだった。祥子は溢れる涙を拭くこともせず
手を合わせたまま、ありがたい気持ちでいっぱいになっていた。
息も凍るほどの寒い日だったが、祥子は心の芯が、ほっこりと暖かくな
っていくのを感じていた。

深々と社殿にお辞儀をして、鳥居を後にした頃には、すっかり陽も翳っ
ていた。参道の金太郎飴屋は、ありがたいことにまだ開いていた。祥子
は、道すがら買ったばかりの小さな袋から一粒口の中に放り込んだ。そ
の途端…甘くて懐かしい味が、祖母の限りなく優しい笑顔を脳裏に連れ
て来た。祥子の瞳は、再び涙でいっぱいになり、恥ずかしさから、表通
りではなく、一本中に入った路地を歩いた。そこには、表通りからは想
像できないほどの、昔懐かしいような昭和の風景が広がっていた。何処
もかしこも、自分の遠い記憶の中にそのまま保存していたような風景や
匂い。十七歳の祥子は確信した。「私はこの町に帰ってくる。」

一年後、この近隣の大学をいくつか受験した祥子は、念願かなって第一
志望の大学に見事合格した。決して、越谷の実家から通えない距離では
なかったが、決意は固かった。更に、本音をいえば、母の敏子と離れて
暮らせることも嬉しかった。


良一は、鳥居前の石垣にもたれかかりながら本を読んでいた。この前の
スーツ姿とは全く違うカジュアルな服装。そのまま大学生として通用し
そうな雰囲気だ。良一は白い紙袋を持って、駆け足で参道を走って来る
祥子の姿が視界に入り、本から目を離した。

「ごめんなさい。待たせてしまいましたか?」
「いや、さっき来たところだから」
「この前はありがとうございました。これ。一応洗っておきました」
「え〜、こんなの洗わなくてよかったのに」 
「すごく助かりました」
「なら、よかったよ」
「本当にありがとうございました」

良一は、それまで読んでいた本をその白い紙袋の中に入れて、祥子の顔
を改めてみた。
「さて、今日はこれからどうしようか」
「え?」
「用事ないんでしょ」
祥子は、どこかでそんな言葉を期待していながらもドキンとした。そし
て、どう返答していいかわからず、コクンとだけ頷いた。良一は続けざ
まに、祥子に更に聞いてきた。

「そうだ。もう大丈夫なの?」
「何が…ですか?」
「足だよ、足。この前、かなり酷い水ぶくれになっていたもんね」
「あ、大丈夫です。ほとんど治りましたから。私、若いですし」
「あはは。確かにそうだよね。僕なんか、後二年で三十だよ。自分は若
いつもりでいても、オッサンの部類に入ってきているのかな」
「いやだ。高梨さんは若いですよ。うちの大学にそのまま紛れ込んでも
わからないです」
「そう?」
「はい」
「じゃ気をよくして…。さ、どうしよう。何処か行きたいところある?」

祥子は、自分が思ったほど緊張せず、良一と自然に話せていたことにほ
っとしていた。しかし、何処か行きたいところと突然リクエストされて
も、直には思いつかない。こんな時には、他の人はどうするのだろう…。
あれこれ頭の中に思いを巡らせても真っ白になっていくばかりだった。


                         つづく…