『雨弓のとき』 (48) 天川 彩
あっという間に、良一が札幌に長期出張する日が近づいてきた。良一は
その準備で連日帰りが遅くなっていた。
祥子は、時計を見ながらため息をついた。針は午前一時を指している。
もうそんな日が、三日以上も続いていた。
「パパ遅いですね」
祥子は、まだ首も据わっていない真由子の寝顔を見つめながら、独り言
のように話しかけた。
そして、ふと我に返った。この日の朝、良一を見送った後、自分が声を
発したのは、これが最初…。それも、会話にもならない言葉。これから
良一がいない間、ずっとこうして過ごすのかと思った途端、祥子は身震
いがした。
良一が長期出張に出る日の朝、祥子は寝坊した。いや、正確には目は覚
めていた。が、体が起き上がることを拒否しているように重く、沈んだ
ようになっていたのだ。
当分、会えないのだし、美味しい朝ごはんを作って笑顔で見送ってあげ
ようと思っていたのに、気持ちと体が喧嘩をしているようだった。
思えば、この日の真夜中にも真由子は夜泣きをして、かなりの睡眠不足
ではあった。しかしそんな状態とは少し違うと祥子自身薄々感じていた。
祥子が、重い体をどうにかして引きずりながら居間へ行くと、良一は、
格好良くスーツを着こなしながら、トーストとコーヒーだけの簡単な食
事をしていた。
「ごめんね…。なんだか体がダルくって」
「いや、寝ていたらよかったのに。毎晩、真由子の世話で大変な時に、
一緒にいてやれなくて、ゴメンな。けど、三ヶ月なんかあっという間だ
ろうからさ。俺も頑張るから、祥子ちゃんも留守頼むよ」
良一は、食べかけのトーストを皿に戻すと、立ち上がってパジャマ姿の
祥子を強く抱きしめた。
祥子は、不意に涙がポロポロとこぼれたので、慌てて良一から離れた。
「どうしたの?」
祥子の顔をのぞきこんだ良一に、祥子は泣き笑い顔を向けて言った。
「こんなにバリッとしたスーツに、私の涙や鼻水付けちゃ、シミになっ
ちゃうよ」
良一は何も言わず、祥子の濡れた顔を手で拭うと、再び強く抱きしめて
髪の毛を優しく撫でた。
祥子は、良一の微かなコロンの香を胸いっぱいに吸い込んだ。
「それじゃ、行って来るから。しばらくの間、留守を頼むね。それから
真由子のことも頼むよ」
既に、札幌のウィクリーマンションに大きな荷物を送っていたので、良
一はまるで日帰り出張のような格好で、玄関を出て行った。
良一の姿が見えなくなった途端、祥子は再び体が重く、そしてダルくな
り、再びベッドに潜り込んだ。しかしその直後、真由子が目を覚まして
泣き出した。
祥子はため息をつきながら、起き上がった。
つづく…